もう一つの舌

もう一つの舌、ホラー小説表紙

 

◆あらすじ
主人公は春の終わり頃から、何を口にしても甘く感じるようになる。それは砂糖のような甘さではなく、ねっとりとした異質な甘さだった。医者に診てもらっても異常は見つからず、主人公は自分の内側から甘さが湧き出ているのだと確信する。次第に、主人公の舌に異変が現れ始める。

 

※! ※以下の内容が含まれます※! ※
ホラー、味覚、グロテスク、舌、じわじわくる恐怖、食欲、依存、短編

 

◆もう一つの舌

 

 何を食べても、甘い――そう感じ始めたのは、春の終わりだった。

 最初はコンビニのおにぎりだった。鮭のはずなのに、ほのかに砂糖のような後味が残る。味覚が疲れてるのかもしれないと、そのときは流した。

 だが、それは日ごとに強くなっていった。

 味噌汁も、漬物も、ブラックコーヒーさえも、すべてが甘い。
 しかも、その甘さは普通の砂糖とは違う。もっと重たく、舌にまとわりつくような……唾液そのものが甘くなったみたいだった。

 医者に相談しても、特に異常は見つからない。味覚障害の一種かもしれないと言われ、ビタミン剤だけを処方された。

 だが、自分ではほぼ確信していた。この甘さは自分の外ではなく、内側から湧き出しているのだと。

 ある夜、我慢しきれなくなって、料理を作った。自分の持てる技術をすべて注ぎ込んだ料理だ。
 テーブルにずらりと並んぶ皿。赤いシチューに焼けた肉、溶けるような果物。どれを食べても、甘くて濃密だった。
 スプーンを手に取り、一口運ぶ――その瞬間、喉が焼けるような甘さが広がる。まるで全身が砂糖漬けになったようだった。

 手は止まらず、料理は口に運ばれる。そしていつの間にか朝になっていた。皿が空になった時、口に手を当てる。
 その手さえ食べてしまうかもしれない。恐怖もなくぼんやりとそう思った。

 それからというもの、舌が変わり始めた。

 鏡を見ると、舌の裏側に赤黒い線が浮かび、ヒダが増えている。
 食事をとるたびに、口の中が変に熱を帯びた。それでも食べ続けてしまう。あの甘さに支配されていた。

 気づけば、冷蔵庫の中は常に空っぽになっていた。買い足しても買い足しても、いつの間にかなくなっている。
 自分がいつ食べたのかも曖昧だった。

 ある日、舌を引っ張ってみた。根元の奥から、もう一本、別の舌が生えかけているのを感じた。
 その“第二の舌”は、口の奥で動いていた。満足できていないのだろう。身震いする体と、広がる甘味。
 恐怖さえもその舌は舐めとるようだった。

 ふと、人混みの中を歩いていると、唾液があふれた。目に止まるのは行き交う人の姿。
 舌を思いっきり噛んで、理性を呼び起こそうとする。

 傷ついた舌から血が滲む。……それさえも甘いと気づいた時、自分が手遅れになっていることを知った。

 ――それからというもの、ひとりでいるときは必ずマスクをするようになった。
 甘い香りに駆られて、いつ何を口にしてしまうのか分からなかったからだ。息苦しさを感じても、外せない。
 それなのに、マスクの内側からはかすかな甘い匂いが漏れている。まるで呼吸をするたびに、体が求めているものを刷り込もうとしているようだった。

 夜が来るたび、台所のわずかな光の下で、冷蔵庫の扉を開いたり閉じたりしてしまう。
 いつの間にか廊下にまで漂う、外からの重たい甘さ。まるで誰かがこっそり甘味料を撒き散らしているのではないかと思うほどだった。
 けれど、そんな気配を感じられるのは自分だけ。誰も何も言わない。それどころか、人との会話は減っていき、いつしか声を発するのも億劫になっていく。

 ある夕方、ふと玄関のドアを開けると、空気がぬるく感じられた。
 どこからか漂う甘いにおい。それは花の香りかもしれないし、どこかの家で焼いているお菓子の匂いかもしれない。
 鼻を覆うようにマスクを押さえる。すると口の中に唾液が滲む。その瞬間、再び頭の奥がじんと熱を帯びる。
 ――何かが自分を誘っているような気がした。

 遠くから人々の笑い声が聞こえる。会話が甘く震えて伝わってくる。
 思わず舌先で唇を湿らせそうになったところで、奥歯を噛んで踏みとどまる。
 どうにか理性を取り戻そうとするものの、自分が何を我慢しているのか、もうはっきりとは分からない。
 ただ、「この衝動に任せてはいけない」という確信だけが離れなかった。

 ――結局、ドアを閉めることもできず、じっと外を見つめていた。
 夕闇が滲む街の景色は、まるで濃厚なシロップに浸されているようで、肌が粟立つほど甘ったるい。
 その甘味は誰にも感じ取れないのだろう。けれど自分には、抗いがたく広がっていく。

 この全身に感じる甘味が、新たな自分の始まりであり終わりであるとさえ思えた。

 口の内側で、もう一本の舌がかすかに動く。
 だが、そこで足を踏み出すことはなかった。暗闇に溶け込むように立ち尽くしながら、口元にだけ意識が集まる。
 聞こえてくるのは、自分の唾液を飲みこむ音――そして、それを甘いと感じてしまう感覚。
 それ以上に何もできないまま、夜の闇だけが静かに重さを増していく。

 ……そうして、気づけばいつもと同じ朝がやってくるのだ。
 周囲は何も変わっていない。変わっていくのは自分だけ。
 そして今日も、マスクの中に息をこぼしながら、そっと口を閉じた。

 

〈終〉

 

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