君は7月の雨だった Rain-in-july

Rain-in-july

あらすじ
主人公の「俺」は、祖母の家に帰省した町で、雨の中傘も差さずに佇む不思議な雰囲気の少女・結月と出会う。声を出せないという噂の彼女は、口の形で言葉を伝え、二人は少しずつ距離を縮めていく。夏の終わりの別れを予感させながらも、二人は言葉を超えた絆を育んでいく。

※以下の内容が含まれます※
恋愛、青春、悲恋

   

1. 雨の中の彼女

   

雨が降ると、彼女は外に出てきた。
それも決まって、傘を差さずに。
濡れるのが好きなのか、それとも――。

「傘差さないんですか?」

ぽつぽつと降る小雨の中、そう言っても、彼女は返事をしない。ただ、微笑んで頷くだけ。
それが、最初の“会話”だった。

彼女の名前は、結月(ゆづき)。
声を出せないという噂があったが、誰も確かなことは知らない。
誰とも深く関わらず、ただ静かに存在していた。

そして、俺は祖母の家に帰省していた。
この町に戻るのは、三年ぶり。
高校を卒業し、都会の大学に通う俺にとって、ここはもう「一時的な場所」でしかなかった。

でも彼女だけは、一目見た時からなぜか記憶に残り続けていた。
 

次に会ったのは、夕暮れの図書館だった。
窓から射す茜色の空気の中、彼女は古びた文庫をめくっていた。

俺は声をかける代わりに、近くの席に座り、ノートにこう書いた。

《雨、好きなんですか?》

彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから口を「ア」と形作った。
だけど、音はない。

そして、自分の指でゆっくりと空中に文字を書いた。
目でその指を追う。

「あ・め・が・す・き。ぬ・れ・る・の・は・き・ら・い」

なんだそれ、と笑ってしまった。
そしてそれが、俺たちの始まりだった。

  

彼女は言葉を「口の形」で伝える。
当てっこみたいに読み取るのは難しいけど、それもまた楽しかった。
正解したときに見せる小さなガッツポーズや、間違えたときの「ぷくっ」とした不満げな顔。
それが、声以上に饒舌だった。

ある日、ベンチに並んで座っていたとき。
俺は何気なく、ノートにこう書いた。

《この町には、ずっといるの?》

結月は一度こちらを見て、少しだけ考える素振りを見せた。
そして、何かを言うように唇をゆっくり動かした。けれど、読めなかった。

「……ごめん、なんて?」

そう聞くと、彼女はふいっと視線を逸らし、
いたずらっぽく唇だけを大げさに動かしてみせた。

「す・き・な・の?」

わざとらしいくらい、はっきりとした口の形。
からかうように、でもどこか――ちょっとだけ挑発的に。

その瞬間、顔が熱くなった。
まさかそんな返しが来るとは思ってなかったし、ドキッとした自分に驚いた。

でも彼女はすぐに立ち上がって、近くの木の下で待ち合わせでもしているかのように向こう側を向いた。
本当は照れていたのかもしれない。あるいは、これ以上なにも言わせないためか。

からかわれた。
でも、その目の奥に――どこか切ないものが見えた。

まるで、この恋に、期限があることを知っている人間の目だった。

  

7月の終わりが近づくにつれ、日差しが嫌に眩しく感じた。

「8月には、町を出るんだ」

俺がそう告げたとき、結月は少しだけ笑って、「しってた」と口を動かした。

俺は本当は聞きたかった。
「じゃあ、君はどこに行くんだ?」って。
でも聞けなかった。

なぜなら、彼女の中ではきっと――
最初から、これは“終わる恋”だったのだろうから。

 

  

2. 秘密と、約束

  

七月の最後の週。
午後の空は夏の青を通り越して、どこか白みがかった熱を帯びていた。

川沿いの遊歩道、蝉の声が遠く、汗が滲む。

結月は、今日も音のない笑みを浮かべていた。
けれどその笑みは、少しだけ輪郭が淡かった。

俺はコンビニの袋からアイスバーを取り出して、一本差し出す。
結月は目を細めて、小さく口を開いた。

「どうも」

声にならないその音すら、なんだか自然に聞こえた。

ベンチに並んで座り、ふたりで無言のままアイスをかじる。

それだけなのに、胸の奥がじわじわ熱くなる。
言葉がなくても、こうして並んでいるだけで、何かがちゃんと伝わっている気がする。

「声ってさ、なくても意外といけるもんだな」

そう口にすると、結月は少しだけ眉を上げて、からかうような目をした。
そして唇だけで「そ・れ・な」と言った。

クスッと笑ってしまう。
でも――この“穏やかさ”が続かない予感は、ずっと前から胸の奥にあった。

夜。
風が強くなって、遠くで雷が鳴っていた。

祖母の家の縁側に座っていると、カタンと塀を乗り越えるような音がした。
結月だった。
びしょ濡れのまま、髪が頬に貼りついていた。

何も言わずに、俺の横に座る。

「あのさ、風邪引くぞ」

そう言うと、結月は首を振った。
ポケットから取り出した小さなノートに、ゆっくりと文字を書いた。

「眠れなかった。話したかった」

ページをめくると、もう一行。

「明日、いなくなるの」

言葉を追った瞬間、心臓が少しズレた位置に落ちた気がした。

「……どこに?」

彼女は答えず、ただ俺の顔を見ていた。
なにか言いたそうな目をしていたけど、結局言葉にはしなかった。

その代わりに、唇を動かした。

「ひ・み・つ」

だけどそれは、軽い冗談の形をしていたのに、
まるで深い場所からすくい上げた言葉みたい重々しく思えた。

その夜、ふたりで並んで雨を眺めていた。
雷が遠くで鳴って、部屋の中にだけ、しんとした世界があった。

俺は彼女の横顔を見つめていた。

たぶん、この夏が終わるころ、
結月のことを誰に話しても――うまく説明できないんだろうと思った。

「名前、ほんとは違うんじゃないかって思ってる」

そう言うと、結月はふっと息を漏らすように笑った。

彼女は頷き、そっと俺の手を取った。

柔らかくて冷たくて――
でも確かに、そこにいた。

「約束しよ」

そう口が動いた。

俺は言葉を飲み込みそうになって、咳ばらいするように言った。

「……なにを?」

「覚えてて」

ただ、それだけ。
覚えてて。
どこで出会って、どんなふうに過ごして、どんなふうに笑ったか。

たったそれだけのことが、
たまらなく重くて、愛しかった。

  

3. 七月の雨は、君のことを忘れない

  

翌朝、目が覚めたときには雨は上がっていた。
蝉の声が戻ってきて、空がいつもより高く感じられた。

縁側に座って、昨夜のことを思い出す。

結月は、今日いなくなると言っていた。
行き先は告げられず、「覚えてて」とだけ言った彼女。

あの“口の動き”だけが、やけに心に焼きついて離れない。

覚えてるよ。
思い出すまでもなく、ひとつひとつの仕草、まばたき、笑い方。
すべてが、もう体の中に染み込んでいる。

町のバス停に向かったのは、ただ“居ても立ってもいられなかった”という理由だった。

結月がそこにいるかもしれない。当てずっぽうで、馬鹿みたいなことをしている自覚はあった。

周囲を見渡し、行き交う人に遮られた先、バス停のベンチに彼女はいた。

白いシャツと、いつもより少し大きなバッグ。
その姿は、いつもより“現実的”で、逆に遠く感じた。

俺に気づくと、彼女は立ち上がって、少し困ったように笑った。

「ほんとに、行くんだな」

頷く。
けれど、何かを言いかけて、また躊躇うように視線を伏せる。

俺は小さく息を吸って、声を落とした。

「……好きだと思ってた。たぶん今も、好きだと思ってる。
でも、それがどれくらい本当なのか、自分でもまだわかんない」

その言葉を、彼女はじっと聞いていた。

そして、ほんのわずかに口を動かした。

「わ・た・し・も」

それだけだった。
それ以上、なにも言わなかった。

それで十分だった。
たぶん、そういう恋だったんだ。

バスがやってきた。
ドアが開く音と、降りてくる乗客の気配。
その間に、彼女はポケットからひとつの飴玉を取り出し、俺の手にそっと握らせた。

包み紙の端に、細い字で何かが書かれていた。

《恋の運勢、感動的な再会ができちゃうかも》

よくある恋占いつきの飴玉。その軽い文章がいまはひどく胸を掻き乱した。

彼女がバスに乗り込み、窓の向こうに姿を見せる。
俺は手を振る代わりに、結月の口の動きを見た。

最後に、彼女がゆっくりと形作った言葉。

「ありがとう」

音はないのに、なぜか一番はっきりと聞こえた気がした。

バスが走り出し、夏の空気の中に溶けていく。

蝉の声が一斉に鳴き始めた。
アスファルトには、まだ雨の匂いが残っていた。

ポケットの中で、飴玉の包み紙がカサリと鳴る。

そして俺は、確かに思った。

この七月の雨は、きっと一生忘れない。
君のことを、きっと忘れない。

   

〈終〉

  

  

※この作品はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

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