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胞子都市

主人公
倉科:旧市街地の再開発チームの一員。古いビルで「菌糸の目」を発見し、街で起こる異変にいち早く気づく。周囲が誰も信じてくれない中、一人で真相を追い求める。

◆あらすじ
旧市街地の再開発。取り壊し予定の古いビルで、再開発チームの一員である倉科は、不気味な白い菌糸の模様を発見する。それはまるで人間の目のようで、一瞬またたきをしたように見えた。その日から、倉科の周囲では不可解な出来事が起こり始める。

※! ※以下の内容が含まれます※! ※
バッドエンド、グロテスク、ホラー、胞子、菌類、視線恐怖症の方はご遠慮ください

  

第一章:見えない侵食

 
 倉科は、旧市街の再開発チームの一員として、取り壊し予定の古いビルへ足を踏み入れた。昼間でも薄暗い廊下は、ひどく湿った空気を孕んでいて、まるで地下室のような重苦しさがある。点検用のライトをかざすと、壁のあちこちがカビに覆われているのが分かった。長年放置されてきた建物にしては、やけに生々しい――そんな印象を受ける。

 同僚たちは作業に取りかかったが、倉科はビルの窓ガラスに目が止まった。そこには、人間の目のような形をした白い菌糸の模様が浮かんでいる。倉科は息をのんだ。菌糸の目が瞬きしたかのように見えたのだ。見間違いかと思い、そっと手を近づける。すると、一瞬だけその“目”が閉じたように見え、ゾワッと背筋が震えた。
「なあ、これ……」
 倉科は同僚を呼んだが、同僚はちらりと模様を見ただけで首をひねる。
「ただのカビだろ?気味悪いけど、まあ廃ビルならこんなもんじゃないの」
 そう言って作業に戻ってしまい、気のせいだと笑って受け流される。

 しかし、違和感は増していく。ビルの奥へ調査に入ると、歩くたびに床が微かにへこんだ。まるでスポンジの上を歩いているような感覚。手で触れると内側にかすかに沈んで戻る。これではまるで、無機物ではないような……? 倉科の耳には配管を通る水音まで、耳障りに大きく聞こえる気がした。
 手にした図面を見つめ、古い建物にありがちな老朽化とは違う“生々しさ”に胸騒ぎを覚える。目の前の異様な光景は、ただの老朽や湿気のレベルとは違う気がした。

 誰もが見過ごしているこの異変に、自分だけが気づいている。そんな不安を胸に、倉科は一歩一歩、奥へと進む。すると、背後の窓ガラスをかすめた視界の片隅で、あの“菌糸の目”がわずかに動いたように見えた。追いかけるように振り返ったときには、すでに静止している。
 それでも、あれは確かに“瞬き”していた――倉科は確信した。それがこの建物全体の不穏な気配と、どんなつながりを持っているのかは、まだ知る由もないままに。

 

第二章:静かな感染

 
 廃ビルでの調査から数日後、作業員の一人が急に倒れた。現場の休憩室でうめき声を上げながら、腕の一部を痛そうに押さえている。慌てて医務担当が駆け寄ると、そこにはコケのような緑色の斑点が浮かんでいた。肌が薄く変色し、まるで植物の胞子に覆われているような奇妙な状態だ。
 応急処置の甲斐なく、作業員は救急車で運ばれる。その後、現場ではちょっとしたパニックが起きるかと思われたが、意外にも大事にはならなかった。病院からの連絡は濁され「疲労による抵抗力の喪失やアレルギー反応らしい」などの詳細の省かれた噂しか聞けなかった。会社の管理部門も「疲労やストレスに起因する病気」と処理してしまう。

 しかし、倉科は納得できなかった。
「あのビルで見た菌糸の目と関係あるはずだ。これはただの病気じゃない、建物のせいだ」
 そう上層部に報告しても、誰も本気で耳を傾けようとしない。むしろ「余計な噂を立てるな」「神経質になりすぎだ」となだめられる始末だ。

 ところが、旧市街地のあちこちで不可解な現象が起き始める。信号機が一斉に誤作動を起こし、車が交差点で立ち往生する。ビル群の電気系統が異常をきたし、一帯が突然停電になる。まるで、その区域だけが“なにか”に標的にされているかのようだ。
 再開発チームのメンバーは「老朽化したインフラの故障だろう」と口にするが、倉科にはそれだけでは説明できない気がしてならない。

 無機質に見えた街が、少しずつ“違う形”に変わり始めている。
 廃ビルの窓ガラスに浮かんだ菌糸の目。あの一瞬の瞬きが頭から離れなかった。街自体にアレの影響が及んでいる――そんな悪い予感が、倉科の胸にこびりついて離れない。

  

第三章:焼却計画

 
 かつての廃ビル調査から、日ごとに広がりを見せる“異変”。感染した作業員は入院しても回復の目処が立たず、また他のスタッフからも似たような症状の報告が上がり始めた。ビルだけではない。周辺の建造物にも、あの“目”に似た菌糸の模様が浮かび始めている。都市の変質が進行している――その事実を前に、倉科の焦りは限界に達していた。

「これ以上、放っておいたら取り返しのつかないことになる」
 そう確信した倉科は強硬手段に出る。手遅れになる前に“感染区域”を焼き払おうと決意したのだ。
 彼は以前に参加していた研究プロジェクトの管理倉庫を訪れ、そこに保管されていた火炎放射器をこっそり持ち出した。本来は小規模な実験の後始末のための器具で、軍仕様のものほど強力ではないが、それでも火力は十分だ。

 夜が更け、人通りの少ない時間を狙い、倉科は再開発予定地に舞い戻る。今はフェンスで閉鎖されたあの古いビルの周囲を見回し、あの胞子やカビが集中する地点を目視で確認する。緑の気味の悪い茸やコケのようでいて、生理的な嫌悪を催す塊。それがまるで何かの巣のようにビルの壁に張り巡らされている。その姿を目にしたとき、倉科は震えを抑えながら火炎放射器を構えた。
「これ以上、広がる前に止めなきゃいけない」
 そう声に出し、自分を奮い立たせる。

 トリガーを引いた瞬間、激しい炎の帯が一気に飛び出して壁や地面を舐める。廃ビルの窓ガラスに浮かぶ“目”が、ぶわりと燃え盛る炎の中で揺らめいた。そのとき、ビルのコンクリート内部から低いうめき声のような音が聞こえた……気がした。建物が悲鳴を上げているようにも思えて、倉科は息を呑む。

 だが、そのとき突然、警備員たちの怒号が響き渡った。
「動くな! 火を消せ!」
 複数の懐中電灯の光が、倉科を一斉に照らす。思わず振り返ると、警備員が数名こちらに向かってきていた。
「何をしているんだ! 建物に火を放つなんて正気じゃない!」
 倉科は火を警備員に向けるわけにもいかず、火炎放射器を取り上げられる。取り乱したまま「あれは燃やさなければならない!」と叫ぶが、この場に賛同する者は一人もいなかった。燃やしたはずの壁を見ると、目の前で菌糸のようなものがまた広がっていく。
「あれが見えないのか!あれは、あいつらが……!」

 そのまま倉科は拘束され、保安責任者から厳しい詰問を受ける。彼が「これは建物が生きていて、人間を侵しているんだ」と力説しても、誰も本気にしない。結果的に、倉科は「精神的に不安定な状態にある」と判断され、近くの研究施設の隔離室へ運ばれることになる。
 薄暗い独房のような個室に収容され、精神安定剤を投与される倉科。その目には、まだ先ほど目にした“広がる菌糸の影”が鮮明に焼きついていた。

  

  

 彼の証言はすべて録音されたものの、「妄想のたぐい」として扱われているだけ。静まり返った個室の中で、倉科はただ一人、自分の正気を疑われる苦しみに耐えながら思う。
「もし、もう手遅れだとしたら……この街は、どうなるんだ?」

 その問いかけは、壁に遮られて誰にも届かなかった。

  

第四章:変質する施設

  
 研究施設の個室に拘束された倉科は、面会や外出を禁じられたまま、ひたすら時間を持て余していた。彼の言う「街の変質」を誰も信じず、危険人物扱いする管理者たち――その冷たい視線に、倉科は自分の正気を疑われ続けるストレスを感じていた。

 ところが、隔離された施設内でも、不穏な気配が徐々に広がり始める。まず気づいたのは、天井の隅に生えたカビの模様がやたらと大きくなっていることだった。あるとき倉科がぼんやりと見上げると、そのカビの中心が黒く盛り上がり、まるで「瞳」のような形をつくっていたのだ。うっすらとした照明の下、その“目”は確かに倉科を見下ろしているかのように思えて、不気味な寒気を覚える。
 さらに奇妙なのは、職員や管理者たちの態度だった。会話の最中に、どこかで聞き覚えのあるメガホン放送や工事音のような“都市のノイズ”が混じることが増えたのだ。たとえば、管理者が「今日は薬を増やす」と言った瞬間に、同じ声で「次は○○駅、終点です」という無関係なアナウンスが重なる。職員はそれをまったく意識していない様子で、ただ無機質に業務を進めていく。まるで何かに操られているようで、倉科は嫌な予感に襲われるばかりだった。

 そんなある夜、施設内の照明が突然すべて落ちる。非常灯も点かず、深い闇に沈んだ廊下から、かすかな“ずる、ずる”という湿った音が聞こえてきた。
「……誰か、いるのか……?」
 倉科は呼びかけようとするが、声を上げるより先に不安が膨らむ。あれは人間の足音ではない。もっと重く、這うような動き――何かが床を引きずっているような音だ。ほどなくして、その音が倉科の個室のドアの前で止まる。
 静寂の中、扉が微かに震え、金属がきしむような音がする。カチャリと開錠する音が耳に伝わったその瞬間、倉科は反射的に身を起こした。恐怖と混乱のまっただ中だが、ここを脱出しなくてはという衝動が彼を突き動かす。

 扉をそろりと開けた。すると目の前に少し震える黒い塊がある。手のような塊の先には鍵が握られていた。倉科はその正体について考えたくなかった。なぜ鍵を開けたのかその理由も頭から追いやる。

「開けてくれたことに感謝する……」ふり絞った声でそう言うのが精一杯だった。鍵束が床にジャラッと落ちた。もう体を支えられなかったらしい。

 非常灯も機能しない暗闇に、彼の呼吸音だけがやけに大きく響く。壁を伝って、おそるおそる廊下を進む。
 施設の奥のほうからは、ときおり電気系統のスパーク音が聞こえる。どこへ行けば出口なのかも分からないまま、倉科は脱出を目指して歩を進めた。
 “都市のノイズ”が頭の奥でこだまするような奇妙な感覚を覚えた。どこからか「ただいまの時刻、16時46分をお知らせします……」生々しい時報を知らせる声も聞こえてくる。彼はこの狂気に満ちた施設から逃げだそうと焦る。恐怖に耐えられず倉科は廊下の奥へと駆け出す。

 闇の中の空気はひどく生温かく、施設というより巨大な生き物の体内に迷い込んだような気さえする。彼はその正体を確かめるより先に、建物の出口を求めて、ただただ走り続けるのだった。

  

第五章:逃走、そして──

  

 照明が落ち、闇に沈んだ施設の廊下を進むうちに、倉科は薄暗がりの先で怪しい物音を捉えた。そこには、職員と思しき人影が立っている。最初は背中しか見えず、静止しているようだったが、やがて彼がゆっくりとこちらへ向き直る。その顔は生白く、皮膚の表面には苔やカビに似たものが混じり合い、まるで“胞子”へと変異したかのような異様な姿になっていた。
 虚ろな目でまっすぐこちらを見る様子は、人間というよりは生気のない人形に近い。倉科は恐怖で体がこわばるものの、何とか足を動かして後ずさる。しばらく、廊下の曲がり角の陰から様子をうかがうっていると、立ち去る音が聞こえた。

 倉科は深呼吸をして、先を進む。暗闇で視界は限られているが、非常口の案内表示がかすかに見える。そこをめがけて走り、鉄扉を手探りで開けると、冷たい夜の空気が流れ込んできた。
 ――外だ。
 息を弾ませながら外に飛び出すと、月明かりが照らす夜の街は、一見するとごく普通に動いているように見える。遠くにはタクシーやバスが走り、ネオンサインがきらめいている。あの不可解な施設の変質が、まるで幻に思えるほど平穏な光景だ。

 けれど、このままでは街全体が、先ほどの施設のように変貌していく可能性がある。焦りとも恐怖ともつかない感情に駆られながら、倉科はその場を離れるしかなかった。疲労と混乱のなか、とにかく少しでも遠くへ逃れたい――その一心で、彼は深夜営業をしている長距離バスのターミナルへ向かう。
 うなだれるように乗りこんだバスは、発車するとすぐに闇の国道へと滑り出していった。まばらな街灯が車窓を流れるたび、倉科はまるで悪夢から解放されたかのような安堵を覚える。

 だが、その安堵はいつまでも続かないかもしれない。自分が見てきたもの、そして感じた不気味な変化――あの都市は、ただの老朽やカビの問題ではなく、何か別の不可解なものに侵食されている。誰も信じてはくれないが、倉科にとってはそれが真実だとしか思えないのだった。

 夜の道路を疾走するバスに揺られながら、彼は混濁する意識の中で、ただ静かに怯え続けるのだった。

  

最終章:運び屋

  
 あの夜の混乱から数週間後。倉科は遠く離れた別の都市で暮らし始めていた。施設の一件については、会社側からもみ消しのような形で処理され、倉科は会社都合によって退職させられた。

 新天地で、倉科は地元の建築事務所に就職し、主に鉄道の設計に携わっていた。地下鉄駅の構造計算やデザイン検討など、都市機能の根幹を支える大きな仕事。それでも彼の心は晴れない。あの都市で見た“異様な施設”の記憶が、今も悪夢のように付きまとっているからだ。

 ある日の午後、彼は地下鉄の駅構内図を確認していた。駅の通路や階段、ホームの位置を示す図面を拡大コピーし、細部まで目を凝らしてチェックする。そのうち、何かおかしい――と、倉科はふと違和感を覚えた。
「……あれ、こんな線、描いたっけ?」
 設計段階では存在しないはずのラインが、紙の隅にうっすらと浮かんでいる。消せるかと思い、消しゴムを当てても跡形ひとつ消えない。むしろ、その線は徐々に輪郭を鮮明にしていくかのようだった。

 もう一度、視線を定める。すると、その線はやがて、まるで“目”のような形を形作り始めた。凝視すればするほど、あの“瞬きした菌糸”が脳裏に鮮明に蘇ってくる。
 倉科は血の気が引くのを感じた。これほど遠く離れた街でも、あの“目”は姿を現そうとしているのか。それとも――もしかして、自分こそが、その“目”を運んできてしまったのか。

 ゾクリとした瞬間、彼の肩に微かな埃がついているのに気づく。はたくと、白い埃のような粒子がふわりと宙に舞い上がり、光に透けてきらめきながら空気中へ散っていく。
 どこかで聞いた、あの都市のノイズのようなざわめきが耳の奥で小さく響いた気がした。ようやく思い至る。なぜ、施錠されていたドアの鍵が開かれたのか。なぜ、あのおかしくなった施設で倉科を襲う者がいなかったのか。

 もう逃げられない。あの街で浴びた胞子は、いつの間にか倉科に取りついていた。そして今、別の街へ運ばれたそれは、密かに新たな巣を築こうとしている。
 倉科は恐怖に襲われながら、ただ図面に刻まれた“不自然な目”を見つめ続けるしかなかった。まるでそれが、じっと彼を見返しているかのように――。
  
  

〈胞子都市・終〉

  

夜の森に響く咆哮

あらすじ
古くから「満月の夜は山に入るな」という言い伝えがある山間の村で、都会から来た大学生グループ(ショウ、カナ、ハルキ、フミヤ)が肝試しのために夜の山へ足を踏み入れる。彼らは森の中で血生臭い異臭や不気味な視線を感じ、やがて異様に大きく、知性を感じさせる凶暴な獣に遭遇する。

※!※以下の内容が含まれます※!※
バッドエンド、グロテスク、ホラー、クリーチャー、R15G、残酷な描写あり、欠損表現あり

 

◆プロローグ


薄暗い山間の村。満月の夜には決して外を出歩いてはならない——そんな言い伝えが古くからあった。
しかし都会から来た若者たちは古臭い言い伝えを笑い、肝試しと称して山の中腹にある古い神社へ向かった。もちろん、彼らは何も知らなかったのだ。森の奥から“何か”が目覚め始めたことを……。

  

◆腐臭漂う森

 
夜の八時過ぎ。森の木々が風にざわめき、葉擦れが不気味な囁きのように聞こえる。
四人組の大学生たちは、山道沿いに続く鳥居を潜り、スマホのライトを頼りに歩を進めた。
「なんだよ、全然怖くねーじゃん。すぐに神社に着くだろ?」
リーダー格のショウが軽口を叩くと、他のメンバーも続く。だが、一人の女性カナは落ち着かない様子で周囲を見回していた。
「……変な匂いしない? 何か、血生臭いような……」
言われてみれば、鼻の奥にじわっと嫌な刺激がある。腐った肉のような、獣臭さのような……けれど周囲は暗く、確認するすべもない。

やがて森の木々が一段と密集したあたりに差しかかると、枝葉が月光を遮り、不気味な闇が広がる。スマホの画面だけが薄白く地面を照らし、足元の枯れ葉がカサリと音を立てた。

突然、風もないのに林がざわめき、何かがこちらを見ている気配がした。
チームの一人、ハルキが足を止める。
「……おい、誰かいるのか?」
返事はない。しかし、しんとした暗闇の中、鋭い視線が彼らの背中を焼きつけてくるようだ。

そのとき、木陰の奥で白い光がちらりと反射した。何か金属が光ったのかと思った瞬間、それが“獣の目”だと気づいて背筋が凍る。
「目……だれか、あそこ……」
カナが震え声で指さすと、それは瞬きをするようにゆらりと動き、次の瞬間には消えていた。まるで獲物を狩る前に標的を定める捕食者のような気配。

あたりを警戒しつつ進んでいくと、そこには古びた祭壇のような石造りの台座があった。祭壇の周囲には木札が散乱し、地面に濡れた跡が広がる。
「これ……血?」
ライトを当てると、濃茶色に変色した液体のしみがべったりと地面を覆っていた。鉄臭い刺激が鼻を突き、思わず誰かが嘔吐しそうになる。
「やばい、帰ろうよ……」
誰もがその場を離れたくて仕方ない空気になった。だがショウは気丈に言い放つ。
「ここでビビったら話になんねぇ。ちょっとだけ奥を見て、それで帰ろうぜ。ほんの少しだけ……」
大丈夫だ、怖くない——そう自分に言い聞かせるように深呼吸をする。

だが、その深呼吸が終わらないうちに、上方の木々がざわめき、枝が乱暴に揺れる音がした。視線を向けた瞬間、何か大きな影が樹上から飛び下りてくる。

「ぎゃっ——!」
先頭を歩いていたハルキが声にならない悲鳴をあげる。ライトがぶれ、視界が混沌と揺れ動いた。
林の闇の中に、異常に大きな四つ足の輪郭がうっすら見えた。狼か熊の類なのか——そう思う暇もなく、奴は唸り声とともにハルキに襲いかかる。
鋭利な爪が夜気を裂き、凄まじい力でハルキを森の奥へと引きずり込む。悲鳴が途切れ、次に聞こえたのは“ずるり”という不快な音。何かが強引に裂かれ、肉がちぎれる音だ。

「うわあああああ!」
パニックになった残りの三人はあわてて逃げ出すが、森の中は曲がりくねった獣道しかなく、道順などわからない。月光に照らされない下草は視界が悪く、すぐ足元で転倒してしまう。
ショウが転んだ拍子にスマホを地面へ落とし、画面が割れて光を失う。頼りの明かりを失った彼は、暗闇の中で手探りをするが、自分の足に血のような液体がべったりと付着していることに気づいて戦慄した。

悲鳴を上げながら散り散りに逃げた仲間たち。ショウの視界の端で、ライトを振り回すフミヤが獣に背後から捕まっているのが見えた。
「やめろ……! フミヤっ……!」
大きな声を出す勇気はなく、弱弱しく呟く。様子を見ると、獣は体毛の隙間から覗く筋肉と骨の輪郭が異様に発達しており、狼のようでいて異形の顔をしている。口腔の奥に並ぶ牙が月の光で白く輝き、フミヤの肩肉を咬み砕いていた。
フミヤの絶叫が夜闇を裂き、血飛沫が木の幹を赤黒く染める。食いちぎられた肉がずるりと地面に落ち、ぬめりを帯びて臭いを放つ。

ショウは恐怖のあまり声が出ない。必死に顔を背けるが、瞳の奥にフミヤの断末魔と血の光景が焼きついて離れない。

恐怖から走り出したショウは、林の外縁にある小さな開けた場所まで駆け込み、ゼイゼイと息を切らす。そこで偶然、カナと合流することができた。彼女の服は泥まみれで、腕にはひっかき傷が無数についていた。
「ショウ! フミヤは……?」
ショウは頭を振る。
二人の間に絶望が満ちる。そのとき、森の奥から低く唸るような咆哮が響いた。満月の光が一瞬だけ雲間に遮られ、森全体が息を潜めたような静寂が訪れる。

「来る……! 逃げろ……!」
獣は闇から現れた。血濡れの口からは紺色の舌が覗き、片方の前脚には裂けた衣服の赤く濡れた切れ端が張り付いている。
荒い呼吸が地響きのように伝わり、黄色く光る瞳が二人をロックオンした。

ショウとカナは必死に走る。だが森の中は足を取られ、獣のほうがはるかに速い。
獣は木々をかき分ける音もほとんどなく、静かに接近してくる。その姿は半ば人間に近いほどの知性を感じさせる動きで、確実に二人を追い詰めていた。
やがて行き止まりの崖付近に差しかかったとき、ショウは覚悟を決め、カナを庇うように体を張った。
「くそっ……ここで終わりなのか……!」
武器など何もない。せめて石か木の枝でも——と思う間もなく、獣が飛びかかってくる。

ガッ——という激しい衝突音。ショウは咄嗟に枝を掴んで獣の口元を叩いたが、それはまるで意味をなさない。爪が彼の胸を斜めに引き裂き、皮膚や筋肉を剥ぎ取っていく。
「うああああっ……!」
カナの悲鳴が混じり、ショウは咳き込みながら血を吐き、地面に倒れ込む。意識が遠のく中、獣が次のターゲットへ向き直る気配を感じた。

ショウが目を覚ましたとき、すぐ隣にはカナが倒れていた。
「あ……助けて……」
カナの唇が微かに動き、血泡が混じる声を出す。もうろうとする頭でも肉を噛み砕くような嫌な音を拾うことができた。

満月が再び雲間から顔を出し、惨劇の舞台を照らす。あたりには肉片が散らばり、血の臭いがむせ返るほどに濃い。ショウの胸元からも絶えず血が流れ出し、体温を奪っていく。
必死にカナの手を握ろうとするが、その手は既に冷たくなり始めていた。

獣が血塗れの口を大きく開き、ショウの視界に広がる。
這うように逃げようとするが、足腰に力は入らない。自分の血で泥がぬかるみ虚しく手が滑る。ろくに動けないまま、獣の呼吸が近づいた。

ショウの視界を赤黒い液体が覆い尽くす。


獣は低く唸り、満月の光を受けて牙をむき出しにすると咆哮を轟かせた。

  

エピローグ
翌日の朝、地元の村人が山道に点々と続く血痕を見つけた。しかし、肉片や身体の一部は発見されたものの、完全な遺体は見つからなかったという。
“あの山には、月夜に獣が出るから近づくな”——昔から言い伝えられた戒め。村の老人の諦めに満ちた溜息が宙に溶ける。
森の奥で獣が目覚め、また新たな獲物を待ちわびるかのように爪を研いでいる……そんな噂だけが、恐怖と共に囁かれ続けている。

   

    

    

  

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【社会:トップニュース】

 

   
「謎の廃ビル失踪事件多発――“入ったら二度と戻らない”との証言相次ぐ」

  
<本紙特別取材班>
市街地中心部に放置されたままの“通称:廃ビル”をめぐり、不気味な噂が再燃している。先月以降、このビルに侵入した若者を含む十数名が行方不明となっており、警察による捜査も大きな進展が見られない状況だ。
周辺住民の話によれば、「夜になると建物内部からかすかな悲鳴やざわめきが聞こえる」との証言が複数あがっている一方、行政側は老朽化による倒壊リスクのみを取り沙汰し、事件性の確認を後回しにしていた模様。

「警戒区域に指定してもらいたいが、どこも対応してくれない。もしかして“何か”を隠しているのでは?」
—ビルに隣接するビジネスホテル管理人(60代)

事情を知る関係者によると、捜査担当の警察官も現地調査を忌避する傾向があるとのこと。理由は明らかではないが、「過去に捜査員が内部で体調不良を起こし、そのまま退職した」という怪情報まで流れている。
地元住民からは「夜道を通りかかっただけで体調を崩す」「突然虫が大量発生した」という苦情も寄せられ、都市部全体にじわじわと不気味な空気が広がりつつある。

  

  

【地方ニュース】

  
「山間地域に異形の獣か――満月の夜、若者グループが行方不明」
<地方支局・緊急速報>
地方の山間部にある小さな集落付近で、満月の夜に若者数人が行方不明となる事件が続出している。山道からは大量の血痕や破れた衣類が発見されたものの、遺体や当人らの姿は確認できず、警察は熊などの大型野生動物による襲撃の可能性も視野に捜査中。
しかし、地元住民の間では「従来の野生動物が起こす痕跡と明らかに異なる」との声が上がっている。山の斜面や木の上部には、妙に鋭利な爪痕や噛み千切られたような形跡があり、専門家からも「熊や狼とは違う生態がうかがえる」との指摘がなされている。

「あの山には昔から“月夜に現れる怪物”の言い伝えがある。今まではただの迷信とされてきたが……」
—集落の古老(80代)

夜間外出の自粛要請が村レベルで出されているが、県や国の対応は遅れており、農作業や林業などを生業とする住民は事実上、生活の糧を失いつつある。地域経済への悪影響は避けられず、じわじわと混乱が拡大している。

   

   

【緊急記者会見】

  
行政・治安当局の足並み乱れ――対策本部は機能不全か
都市部での「廃ビル失踪事件」、地方での「獣害」と思しき犠牲者の急増を受け、政府は臨時の対策本部設置を発表した。しかし、捜査協力を要請された自治体や警察からは「複数の怪事件が同時多発しており、人員が足りない」「現場の恐怖心が強く、誰も踏み込めない」と悲鳴が上がる。

識者の間では「このままでは捜査機関や医療機関もパンクし、社会機能が麻痺するのでは」と危惧する声が高まっている。
実際に、一部地域ではパニックを恐れた住民が集団で避難を開始。交通インフラが混乱し、物資供給に支障が出始めている。

  

  

【街の声】

  
若者(大学生):

「ニュースを見たら、あの廃ビルはマジでヤバいらしい。SNSでも映像が出回ってるけど、ガチぽい。怖いけど興味ある……」(匿名希望)

  

地元商店主:

「山道が危ないっていう噂で観光客が一気に減った。役場の人も何か隠してるのか、要領を得ない返答しかしない。もう商売あがったりだよ」(60代・男性)

  

専門家(獣医学):

「獣害にしては遺留品や被害状況が不自然だが、確証がないので何とも言えない。救助隊を組織しようにも二次遭難の危険性が高い。正直、打つ手がない」(大学研究員)

  

  

【混乱拡大】

  
首都圏でも奇妙な症状報告が急増
原因不明の皮膚炎や嘔吐を訴える者が各地の病院に押し寄せる。

報告事例には共通点として「廃ビル付近を通った」「山から流れてきた川の水を飲んだ」など、今回の怪事件と関連が疑われる要素が含まれるという。

医療機関はベッド不足が深刻化し、入院患者を受け入れられないケースが続出。

さらに不安を煽るのは、SNSやネット掲示板に投稿された「山で見つかった遺体の写真」や「廃ビル内の奇怪な生物の映像」だ。真偽不明ながら、一部ではこれらを拡散するユーザーが後日行方不明になるなど、不穏な噂が広まっている。

  

  

【コラム:世界はもう限界なのか】

  
専門家コメンテーターは「政府や警察が想定外の事態に直面し、機能不全に陥り始めている可能性」を指摘する。警戒区域の指定が追いつかず、情報統制も失敗。市民は自衛手段も持たず、闇雲に避難やパニック買い占めを行うのみ——。
社会が麻痺するのに、もはや時間はかからない。

「次はどこで、何が起きるのか」
——これが市井の人々の不安を煽り、さらなる混乱と絶望感を生み出している。

あの廃ビルの奥底に何が潜むのか。満月の夜、山で咆哮する異形の獣の正体は何なのか。未解明のまま、取り返しのつかない犠牲が続き、社会の秩序は音を立てて崩壊の一途をたどろうとしている——。

  

  

深緑に蠢くもの Gelatinous-beast

◆主人公「レイナ」
常人には通り抜けられないはずの強力な結界が張られた森に、なぜか侵入できてしまった。彼女は結界を破る特殊な体質を持つ。
◆あらすじ
レイラは結界の張られた不気味な「異形の森」に引き寄せられ、脱出できない状況に陥る。
森の中で、正体不明の「粘つく視線」に常に監視され、精神的な圧迫感と恐怖に苛まれつつも探索を続けていく。勝気な彼女に待ち受ける運命とは……。

※!※以下の内容が含まれます※!※
バッドエンド、ダークファンタジー、グロテスク、ホラー、クリーチャー、視線恐怖症の方はご遠慮ください

  

第1章:浸食


 ――その森は、永遠の闇夜に閉ざされているかのようだった。
 分厚く生い茂る木々が高く絡み合い、薄暗い林道にはほとんど光が届かない。足元に散らばるのは無数の枯れ葉や、正体不明の白骨。それは獣か、あるいはそれ以外の何か……。レイナには見分けをつけることはできなかった。
 ただひとつ確かなのは、この森は自分を拒まなかったということ。外界からは「侵入不可能」と呼ばれる結界を、彼女だけは難なく通り抜けてしまったのだ。

 「……寒いわけじゃないのに、震えが止まらない」
 自分でも気づかないうちに強張る肩をさすり、奥へと進む。
 時折、背後から誰かに見られているような錯覚に囚われた。振り返っても、そこにあるの絶対的な静寂。
 葉の隙間から入り込む微かな月明かりが、幹や苔むした岩をうっすら照らし、不気味な影を作り出す。まるでそこに何かの横顔が覗いているようで、レイナの心臓は高鳴った。

 “おいで”
 聞こえるはずのない声が、頭の奥に響いた気がした。
 「誰!?」思わず声を荒げる。答えはない。しかし、妙に誘われるような感覚だけが確かに存在した。
 ひとまず立ち止まって呼吸を整えようと木に触れると、樹皮の感触が手のひらの中でざわりと動く。驚いて離した瞬間、その木は何事もなかったかのように沈黙した。幻覚だったのか? それとも森が、何らかの意思を持っているのか?

 忘れかけた記憶が、胸の奥で蠢く。
 幼い頃、周囲とは違うものが見えてしまった時があった。何もいないという方向を指さすレイナに、両親は「化け物を見るな」と泣きながら叱りつけた。それを思い出し、悪寒が走る。
 もしこれがあの時と同じものなら。自分はここで何を視ることになるのだろう。その不安が、森の薄暗さと重なって強烈な恐怖となる。

 けれど、不思議な確信がある。
 ――ここで引き返すわけにはいかない。
 知らずのうちに、足はさらなる奥地へ誘われるように踏み込んでいた。足音がやけに響き、木々のすき間から鋭い視線が刺さる。ひとつ息を呑むと、心臓は耳元で爆音をたてて脈打つ。

 「来るんじゃなかった」――そんな後悔も脳裏をよぎるが、なぜか身体が勝手に動く。どこか遠くで呼び声がする。それは温かな母親の囁きにも似た、甘い誘惑の音色。
 だが、同時に首筋を這う冷たい感触。これは、人ならざる者の気配だろうか。危険を伝える信号が頭の中に鳴り響いているような気がする。しかし、思考はほどなく解けて、森の深みへとレイナを誘った。

 この森には何が潜んでいるのか。
 もしかすると、それはもう生き物の形をしていない“何か”なのかもしれない。
 そして、この結界が意味するのは、外からの侵入を拒むためだけではない――もっと凶暴な存在が、この森から外界へ“逃げ出す”のを防ぐための封印なのではないか。

 レイナは自分が置かれた立場の危うさに、はじめて実感を抱き始める。
 そのとき――木々の奥深くから、粘度のある咆哮が響いた。それは確かに“生き物”の声だった。
 鼓膜がビリビリと振動する。思わず身を縮こませるレイナの周囲に、暗く淀んだ気配が高まり、森全体がうごめいているように感じられる。

 「――ここは、まるで生きているみたいだ」
 か細い声が、自分の震える唇からこぼれ落ちる。それは祈りか、それとも絶望か。
 答えるかのように、森はさらに深い闇を湛えてレイナを呑み込もうとしていた。

 

第2章:粘つく視線

 
 視線――それはひどく生々しく、まるで熱を帯びて絡みついてくるようだった。
 いつから感じ始めただろう。森のどこかから、粘土のようにぬるりとした感触がレイナを覆っている。まるで無数の触手が背中を這っているかのように、肌が総毛立つ。

 「誰か、いるの……?」
 薄暗い木立の奥に言葉を放つが、返事はない。ただ、びっしりと絡み合った幹や蔦がざわめき、どこまでも深く、どこまでも暗い空間が口を開けている。
 風も吹かないはずなのに、木々がざわり、と身をよじるように軋む。そこから滲み出すのは言い知れぬ圧迫感――“見られている”という確信だけが、胸を締めつけるのだ。

 実際のところ、その視線を発する“何か”の姿は見えない。
 けれど、たったいま自分が踏みしめた地面のすぐ先に、そいつが潜んでいるような気がしてならなかった。息を詰め、周囲を見回しても、木々の隙間は暗すぎて見通せない。
 全身を駆け巡る警戒心と、逆にどこかへ吸い込まれそうな“甘い囁き”が同時に存在する。それは苦痛に近い感覚だった。

 「やめて……」
 思わず声が漏れる。すると、その声を聞き咎めたかのように、粘つく視線が一段と強まった。
 その瞬間、じっとりとまとわりつく不快感が、首筋から背中、そして足先まで舐め回すように流れていく。レイナはとっさに後退ろうとするが、足がもつれて転倒しかける。

 枯れ葉の上に膝をついた拍子に、木の根を掴んでしまう。
 力を入れてしまったのは焦りからだった。しかし、その根はまるで生き物の腕のようにぐにゃりと動き、レイナの手首を包む。その瞬間、粘りつく視線が“近づく”感触がした。
 「っ……!」
 悲鳴を上げようとするが、声が出ない。自分の肺が押しつぶされるような圧迫感。瞳の奥がじくじくと痛む。そこに森の闇が浸透してくるような、錯覚とも現実ともつかない感覚に支配される。

 呆然としたまま意識を取り戻そうともがくと、根の動きはピタリと止んだ。
 逃げるように手を放す。そこにあるのは普通の太い木の根で、さっきの触手じみた動きは再び静止している。
 ――まるで、森そのものが試すように。“お前はここで生き残るつもりがあるのか?”と問うかのように。

 怖い。早く逃げたい。けれど、自分が何処から来たのか森の出口さえわからなくなっていた。
 うずくまるレイナの周囲には、相変わらず暗い木々の壁が聳え、外界の気配は微塵も感じられない。それどころか、この空間を支配するのは得体の知れない存在だ。
 その正体は、人外の生き物かもしれないし、あるいは森そのものの意志かもしれない。いずれにせよ、“粘つく視線”は確かにそこにある。彼女を監視し、時には愉快そうに観察しているかのようだ。

 「……行くしか、ない」
 そう呟いて立ち上がると、先ほどの恐怖とは別の感情が胸を突き上げる。見えない敵を前に逃げ腰ではいたくないというレイナの勝気な意地がのぞく。
 ふと、“粘つく視線”が少し離れた場所から漂ってくるのを感じる。あちらもレイナの決意を見て、次の動きを窺っているのだろうか。

 彼女は薄く唇を結んで、木々の合間へと再び足を踏み入れた。
 踏みしめる枯れ葉が、ざわり、とかすかな悲鳴のような音を立てる。暗闇がさらに濃くなったように感じたそのとき、すぐ近くで息遣い――いや、泡がはじけるような濁音が聞こえた気がした。
 次の瞬間、森の闇が深く口を開け、レイナを呑み込まんと蠢き始める。
 そこには確かに、目には見えない何かがいる。ねっとりと、熱を帯びた視線がすぐ背後を舐め回している――その感触だけが、彼女の理性を軋ませていく。

 けれど、引き返さない。もう逃げられない以上、前に進むしかないのだ。
 ――この粘つく視線の正体を暴き出すために。
 レイナは暗闇の奥をにらみつけ、震えながらも、足を前へ運んだ。

  

第3章:息づく泥

  

 かすかな泥の匂いが鼻をかすめる。
 足元を見ると、土が黒々と湿り気を帯び始め、粘りつくように靴底を捕らえつつあった。ここから先は沼地なのかもしれない。
 レイナはそれでも足を止めずに進む。どこかで「引き返せ」という理性の声がするが、それ以上に、“あの視線”と向き合わねばならないという衝動に突き動かされていた。

 闇に染まる木々はますます高く、絡み合う枝が頭上を塞ぎ、夜空さえ見えなくなる。頼りは薄ぼんやりと浮かび上がる苔むした幹や、足元でか細く光る奇妙な発光キノコだけだった。
 その光が、微妙に揺れる。まるで空気の振動に合わせて震えているかのようだ。耳を澄ますと、遠くで泡がはじけるような音――まるで泥の中から何かが浮き上がってくるような音がする。

 粘度を増す地面に足を取られそうになりながらも、一歩、また一歩と踏み込んでいく。すると、どこからか冷たく生温い風が頬を撫でた。
 「……?」
 風の正体を探るように辺りを見回すと、ふいに視界の端で何かがうねった。

 闇に溶け込む輪郭。輪郭と言っても、まるで影が自立しているかのような曖昧な形。しかし、その形は確かにこちらを見ている。粘つく視線が肌を這う。
 咄嗟にその方向へ視線を向けると、そこにははっきりとした姿はない。だが、確かに感じるのだ。背後にも、左右にも、何体もの“影”のような存在が潜んでいる。
 森を覆う闇が、粘土の塊のように動き出しているのか――あるいは、人の姿を真似た森の幻影か。

 濁音を含む呼吸が近づくと同時に、沼地の表面から小さな泡がボコリ、ボコリと湧き立った。嫌な予感がする。
 ここは深く立ち入ってはいけない場所なのかもしれない。自分が結界を通れた理由を確かめる前に、森そのものの“悪意”に呑まれてしまうのではないか……そんな不安が首筋を締め付ける。
 しかし、ここまで進んできた後で戻れないのも事実。かと言って、振り向いた瞬間に“何か”に背後をとられるのも怖かった。

 「……もう少しだけ……」
 そう自分に言い聞かせるように呟くと、足を踏み出す。
 ぬかるみが生温い液体のように靴を飲み込み、粘つく音を立てる。無意識に唇を噛みしめ、目の奥が痛むほど周囲を凝視する。
 だが、いくら探しても、その“姿”は捉えきれない。視界の端をちらつき、気配だけを残して消える。背後で笑っているような気もする。

 まるで森の意思が、自分を愉快そうに弄んでいるようだった。
 足取りが重くなるにつれ、胸の奥に不吉な警鐘が鳴り響く。闇の奥から、何かが少しずつ“形”を持ちはじめている。
 ――やがて、彼女の前にそれは現れるのだろうか。
 息を飲み、木の根や枝をかき分けながら、レイナは前進を続ける。粘度のある気配が、彼女の全身にまとわりつく。背筋を震わせるような熱と、冷たさが同居している。

 そのとき、不意に右足が深い溝に沈んだ。慌てて引き抜こうとするが、ずるり、と絡みつくような感触が足首を押し返す。
 「くっ……」
 必死に体を引いても、何かの意思を感じるほど強く絡みついて離さない。例えるなら、水生植物の長い茎か、あるいは粘膜を帯びた何かの触手のように思える。
 「離して……っ!」
 喉から悲鳴がこぼれると同時に、背後の闇がゆらりと揺れた。粘つく視線が、まるで獲物を捕らえたときの喜びのようにぞわりと密度を増す。

 ぎりぎりまで追い詰められた恐怖と、ここを突破したいという決意が混ざり合う。腕を伸ばし、手のひらを木の根にかけて上体を引き上げる。
 すると、沼の中の何かがぬるりと動き、足を押し出したように感じた。勢い余って後ろに倒れ込みそうになったが、なんとか踏みとどまる。
 振り返るが、そこには何もいない。ただ黒々とした泥水が静まっているだけだ。

 ――試されている。
 その言葉が脳裏に浮かんだ。明らかに、この森のどこかにいる“存在”が、自分を見極めようとしているような気がする。
 この先に進めば、恐らくさらなる危険が待ち受けている。けれど、もはや逃げ道はないのだろう。
 レイナは悔しげに歯を食いしばりながらも、決して目を背けることなく、ぬかるんだ道を再び踏みしめた。少しでも躊躇すれば、森に呑まれてしまう気がしたからだ。

 その一歩が地面を踏むとき、再び感じる――粘つく視線は、すぐそこにいる。
 呼吸を合わせるように、森全体がじくじくと脈打っているかのようだ。
 まるで、生きている檻。
 結界の意味をまざまざと肌で感じながら、レイナは森の中心へ、そして“正体不明の視線”の源へと歩みを進めていく。

  

第4章:揺らめく獣

  

 足を踏みしめるたび、靴底が濡れた泥の中に沈み込み、ぬるりとした音を立てる。冷気と生温い湿り気が同時にまとわりつき、レイナの五感を鈍らせていく。
 暗闇は相変わらず深いが、木々の先でかすかに揺らめく何かがある――そう感じた瞬間、再び“粘つく視線”がレイナの背後を舐め回すように動いた。

 「……どこにいるの?」
 呟く声には、焦燥と怯えが混じる。答えを期待してはいないが、黙っているのも恐ろしかった。
 それに応えるように、暗闇の奥でかすかな“波打つ”気配が生まれる。まるで静かな湖面に小石を投げたときの、波紋のような揺れ。視界の端を意識して見つめると――そこに“形”があった。

 それは、初めはただの歪んだ空気のかたまりのように見えた。透けているというよりは、闇を透過してゆらゆらと揺らめく“半透明の膜”。
 思わず目を凝らすと、その膜がゆっくりと輪郭を際立たせ始める。四肢のように伸びる細長い影、長い尾らしき流線。まるで獣――イヌやオオカミのような形を模しているようにも見えるが、細部がはっきりしない。
 むしろ、“獣”という“概念”をゼリー状の物体がなぞっているだけ――そんな印象だった。

 「……っ!」
 レイナが驚きの声を上げるや否や、ゼラチン状の物体がぐにゃりと動く。ぷるんとした弾力が揺れ、まるで心臓の鼓動と連動しているようだ。
 どこが頭で、どこが胴体なのか。判別しづらい。その“獣”じみたシルエットが、ゆっくりと振り向くような動作を見せると、粘り気のある透明の表面がかすかに艶めいていた。

  

  

 すると、その“獣”の“顔”に当たる部分がレイナへ向き――
 一瞬にして、粘つく視線が鋭さを増す。まるで視線がゼラチンを通じて“直接”ぶつかってきたように感じられる。
 「きみは……何?」
 問いかける声は震えている。森の闇が何かを具現化したのだろうか、それとも、この森に棲む未知の生物なのか。答えはわからない。

 獣の形は、徐々に濃度を増していくようにも見える。はじめは輪郭だけだったものが、今や溶けかけた氷のように微妙に光を反射しはじめ、身体の“奥”がぼんやりと透けていた。
 その透き通った身体の内部を、黒や紫のような液体がときどき混ざり合って渦巻いている。どこか不穏な色を帯びながら、それでも獣の外形を保とうとしているのがわかった。

 まるで森の意識――負の感情や執着心が凝縮され、“獣”の姿をとって現れたかのよう。
 レイナは恐る恐る、一歩だけ後ずさった。すると、その透明の獣は鼻先をひくつかせるように、ゆっくりと首を傾げる。ひた、と沼の底にめり込んだ足が泥をはねあげた。

 「近づいてくる……」
 彼女の心臓がドクン、と強く打つ。身体は怖じ気づきそうになるが、意外にも内心には「逃げてはならない」という感覚があった。
 それは恐怖と同時に、どこか不思議な呼び声に似た感情。森がレイナを拒まないどころか、“試して”いる――そんな確信が、再び頭をもたげる。

 やがて、透明の獣はレイナとの距離をゆっくりと詰め、わずか数メートル先で動きを止めた。
 どくり――どくり――
 獣の内部に滞留していた黒い液体が、心臓の拍動のような周期で波打つ。その振動が空気を震わせ、レイナの耳まで届く。
 粘つく視線の中心が、まさに“彼女だけ”を見ていることがわかった。

 「私を……案内してるの?」
 言葉にしてみて初めて感じる違和感。普通なら、こんな化け物の存在に“案内”を連想するはずもない。
 それでも、この獣が彼女を狩るのではなく、より奥へ、より深い場所へ“導こう”としているような気配を帯びているのは確かだった。
 (戻らないで、ついて来い。――そんな風に思えてならない。)

 生きたゼリーのような身体がふるりと揺れて、獣は背を向ける。
 そして、暗い木々の合間へ、するすると移動し始めた。半透明の身体を通して、苔むした岩や泥濘の地面がかすかに見えるが、獣の輪郭はしっかりと残っている。まるで“形ある誘い”――否、罠かもしれない。
 躊躇いを覚えるレイナだったが、何かに呼ばれるように、その背中を追いかけるように歩みを進めた。粘つく視線は獣から放たれるものだけではない。森全体がうごめいている。

 バキッ――と、突然目の前で大きな音がして、レイナは立ち止まった。
 道を進むのに邪魔な太い木の枝が自ら折れて、地面に落ちて泥に沈む様子が見えた。まるで森そのものが彼女の進行を容認しているかのように道を開けているのだ。
 一方で、ゼラチン状の獣は振り返らず、ただ音もなく滑るように移動を続ける。レイナが追いつこうと少し足を速めると、それに合わせるかのようにスピードを上げ、一定の距離を保ちながら先を行く。

 (水の中を泳ぐ魚みたい……)
 ぼんやりとそんな印象を抱きつつ、レイナは泥沼まじりの通路を慎重に踏みしめる。足をとられながらも、倒木や絡みつく蔦をかわし、必死に後を追った。
 獣から発せられる“不協和音の脈動”を感じながら、この透明の存在が何を望むのか――考えを巡らせる。
 まさか、“森の使者”だとでも言うのだろうか? それとも、自分を奥へ連れ込み、森の主へ差し出す“手先”なのか?

 頭上の木々がかすかに揺れ、枝が軋む音がする。暗闇の中で、レイナの脳裏に幼い頃の記憶が一瞬フラッシュバックした。
 ――見えてはいけないものを見てしまった、あの夜。両親の顔が青ざめ、彼女を遠ざけたあの日。
 けれど、森はそんな心の声を嘲笑うように闇を揺らし、粘つく視線の“飢え”を増していく。今やレイナに退路はない。
 ゼラチンの獣が急に立ち止まったのを見て、彼女も足を止める。獣の輪郭の中で、黒い液体がより深い色合いを帯びて振動していた。

 次の瞬間――何かが“森の奥で咆哮”を上げた。
 衝撃で空気が震え、レイナは思わず身をかがめる。ゼラチンの獣も大きく揺れ、その輪郭がいったん崩れるほどの衝撃だった。
 「な、何……!?」
 その声は獣の唸り声かもしれないし、森の心臓の鼓動かもしれない。あるいは、この森に“別の存在”がいる証拠か――

 獣のゼリー状の身体が再び“獣”の形へと復元されると、今度はゆっくりとレイナの方へ向き直る。
 そこには瞳も鼻先も存在しないはずなのに、確かにレイナを見据えていた。奇妙な“感情”がそこにある。悲しみか、怒りか、警告か――判然としないが、獣はレイナと視線を交わすように静止している。
 森の中を満たす粘ついた視線がさらに濃密になる中、レイナは固唾を飲んだ。心臓が高鳴り、息が上がっていく。
 (この存在は、敵なのか? それとも……)

 不気味に揺れるゼラチンの“獣”は、一拍おいて再びレイナに背を向け、奥へと進む。まるで「ついてこい」とでも言わんばかりに。
 彼女は強張った体をなんとか動かし、震える膝を押さえて獣のあとを追い始めた。そこで待ち受けているのが“さらなる恐怖”か“真実”かは、まだわからない。
 しかし、結界に閉ざされたこの森で、彼女が選べる道はもう“前”しかなかった。

  

第5章:沈黙の導き

   

 闇がさらに濃くなった気がする。木々の幹は湿り気を帯び、周囲には苔や菌糸の匂いが充満していた。レイナは息苦しさを覚えながらも、ゼラチン状の獣を見失わぬよう足を進める。
 黙々と先を行くその背中は、まるで儚げな光の塊のように見えた。身体を構成するゼリーが微かな反射を放ち、あたりの闇と溶け合いながらも輪郭だけは浮かび上がっている。

 その“獣”は、先ほどの咆哮が響いた方角へ向かっているようだった。怒りにも似た大気の震動が断続的に伝わってくる。葉と葉、幹と幹がぶつかり合う音が遠くで重なり、森がじくじくと痛んでいるようにも感じられる。
 「この森、本当にどうなってるの……」
 声を潜めて呟くが、答えは返らない。代わりにゼラチン獣が小さく震え、揺るがすような視線を向けてきた。

 ――ついてこい。
 そんな無言のメッセージが、またしてもレイナを縛る。心臓はまだ早鐘を打っているが、ここで立ち止まれば一瞬にして暗闇に呑まれてしまいそうだ。
 森の粘ついた気配は、獣以外の“意志”も存在していることを示唆していた。おそらく、あの咆哮の主がいる。森を支配するさらに強大な気配が、どこかの深みに潜んでいる。それを感じるだけで、背筋が凍るような恐怖に襲われる。

 足元のぬかるみが次第に浅くなり、視界が開けてきた。絡み合う木の枝が徐々にまばらになり、朽ちかけた倒木が立ち並ぶちょっとした空間へと出たのだ。
 中央には、奇妙な円形の窪地があり、水たまりのように地面がへこんでいる。そこに散乱するのは、石の欠片か、あるいは白骨か。レイナには判別しづらいが、明らかに“自然のまま”というには不自然な配置だった。
 ゼラチンの獣は、その窪地の縁に立ち止まり、内部を見下ろしている。かすかに尻尾を揺らしながら、そこに意識を集中しているかのようだ。

 レイナも恐る恐る覗き込む。闇に満ちた底からは、細い泡のようなものがときどき湧き上がっては消えている。一見すると泥水のようだが、粘度はさらに高く、まるで闇を溶かしたスープのように見えた。
 「ここで……何をしろっていうの?」
 問いかけても、ゼラチン獣は答えない。ただ、またひとつ波打つように身体を揺らすと、何かを促すようにレイナの顔を見上げる。

 そのとき、ぬるりと動いたのは窪地の中の“液体”だった。
 小さな渦が起こり、黒い泥が螺旋状に回転し始める。そこから、一瞬だけ“白い何か”が浮かび上がったのが見えた。まるで、人間の指の骨のような細い欠片。それが再び泥の底へ沈んでいく。
 「やだ……」
 嫌な予感がして、思わず腰が引ける。だが、ゼラチン獣が小さく唸るように振動し、同時に森の奥から先ほどの咆哮の余韻が微かに響いた。

 ――進め。
 そんな強制力すら感じる圧迫感。レイナは歯を食いしばると、必死の思いで窪地の縁に片足をかける。こみ上げる吐き気を押さえつけながら、ゆっくりと泥の表面に足を降ろした。
 思いのほか抵抗は少なく、足首までが沈む。冷たいような生温いような、不思議な感触に肌が泡立つ。
 「……沈む?」
 恐る恐るもう片方の足も踏み込み、腰まで泥に浸かると、微妙に浮力があるのか完全に沈まない。しかし、足がつくわけでもなく、宙に投げ出されたような不安定さだった。

 ゼラチン獣は窪地の端から、じっとレイナを見つめている。そこに敵意や悪意は感じられない。むしろ、“そこを通って奥へ行け”と命じているように見えた。
 ――この先に、何があるの?
 問いかけたいが言葉にならない。レイナは恐怖と好奇心に胸をかき乱されながら、意を決して深みへと身を沈め始めた。
 粘つく液体が胸を過ぎ、やがて肩、そして首へ。呼吸が苦しくなるたび、過去に封じ込めていた嫌な記憶が蘇りそうになる。

 頭まで泥に沈んだ瞬間、耳鳴りと共に視界が真っ暗になる。息を止め、目を閉じた状態で感じるのは、全身を覆う濃密な“視線”。まるでこの泥そのものが森の意志を帯び、レイナの内側を覗き込んでいるかのようだった。
 耐えきれなくなり、喉の奥で悲鳴をあげそうになったそのとき、ふわりと身体が浮く感覚が走る。
 (……死んじゃう!)
 覚悟を決めかけた瞬間、次に彼女が目を開けると、そこは暗くじめじめした“地下空間”だった。頭上を見上げると、さっきまでいた“窪地の裏側”が開いている。どうやら泥の膜を通り抜けて、下へ落ちてきたらしい。

 冷たく固い岩肌を背にして、荒い呼吸を繰り返すレイナ。
 ほんの数秒の潜行が、永遠のように感じられた。恐怖で胸が張り裂けそうになるが、それでも生きている。
 「あの獣は……?」
 慌てて周囲を見回すが、ゼラチン獣はここにはいないようだ。代わりに、上方の泥膜がかすかに揺れて、向こう側で獣の姿がちらりと見えた気がした。まるで「お前はそこで先に進むのだ」と言わんばかりに、あえて降りてこないのだろうか。

 立ち上がり、足元を確かめると、そこにはかすかな光を放つ石の欠片が散らばっていた。薄青い蛍光を帯び、手に取ると弱々しく周囲を照らす。
 洞窟のようになった空間は奥へと続いているらしく、岩肌の隙間から生温い風が吹き抜けるのを感じた。
 ――森の下にも、こんな空洞があるなんて。
 まるで“誰か”がつくった通路のようにも思えるが、それが何者なのかはわからない。

 静かな薄明かりに照らされる薄暗い通路。その先からは、低い唸り声にも似た振動がごく微かに伝わってくる。地面がじわりと脈動するようだった。
 レイナは石片を握りしめながら、足を引きずるように進む。今はただ、この通路の先にこそ、自分が導かれてきた答えがあると信じた。
 同時に、背後の泥膜越しに、ゼラチン獣の視線がまだ見守っているのを感じる。森の支配者がいるのだろうか、それともこの獣こそが森を代弁しているのか――思考は渦巻くが、立ち止まる時間はない。

 もう、後戻りはできないのだから。
 深呼吸の末、レイナは震える足で暗い岩の回廊へ一歩を踏み出した。森の中とはまた違う、不気味で生々しい息遣いが、この地下空間には満ちている。
 その息遣いが、遠くから彼女を誘うのか、あるいは喰らおうとしているのか――わからない。
 ただひたすらに、視線に背中を押されるように進むしかないのだと、レイナは痛感していた。

  

第6章:深奥に眠る記憶

   

 細い通路を抜けると、薄暗い洞窟は意外なほど広い空間へと続いていた。天井は高く、ところどころで無数の光苔がほのかな輝きを放っている。
 レイナはその光を頼りに、滑りやすい岩の床を慎重に進んだ。呼吸はまだ荒く、泥膜を潜り抜けたときの苦しさが身体の奥に残っている。
 それでも、不思議と“居心地の良さ”が胸の片隅に広がっていた。まるで、ここが自分の帰るべき場所だったような、そんな錯覚にも似た感覚。

 (こんな場所、はじめて来たはず……なのに)
 頭のどこかで“いや、前にも来たことがある”と囁くような記憶が揺らぎ始める。思い出そうにも、霞がかった映像がちらついては消えていく。
 遠くで響く低い唸り声が、レイナを現実へ引き戻した。そうだ、ここは安全とは言いがたい。いつ何が起こるか分からない。
 しかし、足を止めるわけにはいかない。先へ進め、と暗闇の向こうが脈打つように促している気がした。

 「……どうして私が、こんな場所に来られたんだろう」
 思わず口にした疑問は、実はずっと胸の奥に絡まっていたもの。結界を破ってこの森に入れたのは、突発的な偶然ではない――そんな気がずっとしていた。ふと、蘇る記憶があった。

 ――幼い頃――
 両親に厳しく叱責されたあの日のことを、彼女はぼんやりと思い返していた。
 (“あんな化け物なんか、見えてはいけない”)
 あの言葉とともに、自宅の奥へ閉じ込められた記憶がある。まるでその“化け物”がレイナと深く関わることを恐れるように、両親はひどく怯えていた。
 森とは関係がないと思い込んでいたその記憶が、なぜか今になって蘇る。

 そのとき――
 岩壁の奥から、淡い光が瞬いた。まるで呼吸をするかのように光が明滅している。レイナがそっと近づいてみると、そこには小さな隙間があり、中には苔や鉱石が密集するように生えていた。
 そして、その苔の中心に、奇妙な石碑のようなものが埋まっているのが見えた。
 「何……これ……」
 小さく刻印された模様は見覚えのない文字のような、あるいは植物の根を象ったような形。けれど、レイナの視線がそれに触れた瞬間、頭が軽い痛みに襲われる。

 ――痛い……!
 鈍い頭痛とともに、視界の端に白いノイズが走り、昔の情景がふっと浮かび上がる。幼いレイナが、今日のような闇夜の森の中を歩いている映像だ。
 「嘘……私、子どもの頃にここへ……?」
 自分でも信じられない光景だった。けれど、その記憶はあまりにもリアル。暗闇の中で迷いながらも、不思議と怖くなかった。むしろ“安堵”すら覚えていた――そう、今と同じ奇妙な心地よさを。

 そのとき、壁を這うような低い振動が再び響き渡る。まるで何かが遠吠えするような、しかし明らかに人知を超えた咆哮の波動だ。
 レイナは痛む頭を押さえながら、石碑に触れかけた手を引っ込める。
 (この先に“何か”がいる……。)
 それはゼラチン獣や、これまで森で感じた粘つく視線とも、別次元の圧倒的な存在感を放っているように思えた。

 少し先へ進んだ通路は、暗がりの奥へと続いている。そこに行けば、さらに深い何かに触れてしまうかもしれない――だが、レイナの胸に芽生えるのは恐怖だけではない。
 (行かなきゃ、ダメ……)
 自分が結界を破ってここへ来られた理由。その謎を解くためには、この地下の奥底まで踏み込む以外にない。
 “幼い頃の自分”が感じていたという奇妙な安心感は、あのときすでに森がレイナを受け入れていた証拠なのだろうか。

 ふと視線を落とすと、壁の凹凸に沿うように何本もの根のようなものが蠢いているのが見えた。木の根や植物のツタとは異なる、まるで生体の血管じみた動き。
 それが微妙に脈打ち、“彼女を見守っている”ように思えると同時に、“この場所で逃げ場はない”という事実を突きつけていた。
 ――まるで森全体が意志を持ち、彼女をここに導き、囲い込んでいるのではないか。そんな考えが頭をよぎる。

 「私……昔、ここに迷い込んだんだよね……」
 口にする言葉は自問自答。ゆっくりとした足取りで通路を進むほどに、霞んだ記憶が少しずつ形を成しはじめる。
 ――幼い頃、夜の森。両親と離れて一人きり。やがて不思議な入口のような場所に辿り着き、木々の間をするすると抜けていった。それが結界だったのだろうか。

 しかし、どうやって戻ってきたのか、その部分だけは思い出せない。もしかすると森が“記憶”を封じていたのかもしれないし、両親が何らかの方法で封印していたのかもしれない。
 (あのときの私は確か、結界を『知らないうちに』通り抜けていた……)
 今再び“知らないうちに”結界を破った。あるいは結界が彼女を通した。いずれにせよ、レイナがここへ来るのは不可避だったのだろうか。

 どこからか、かすかな声――もはや風か何かの鳴き声かもわからないが、「ようこそ」「お帰り」と言っているようにも聞こえた。
 その声に重なるように、また頭の奥がじわりと痛む。記憶の扉がこじ開けられ、幼い自分が“母親”とも思える、今思えば化け物の輪郭を帯びたそれに手を引かれ、暗闇を歩いているイメージが一瞬、脳裏をかすめた。
 
 幼い彼女を導いたのは、ゼラチン獣のような存在だったのか。それとも森そのものが母性を帯びていたのか――判然としない。

 レイナは苦しさと懐かしさが入り交じった奇妙な心地に戸惑いながらも、一度大きく深呼吸をして気持ちを落ち着けた。
 この“心地よさ”は、強迫観念を和らげてくれる一方で、決して安心していいという合図ではない気がする。森は優しく招くと同時に、恐ろしい牙を持つ檻でもあるのだから。

 さらに奥へ踏み出すと、微かな光の中にゆらぎが生じた。通路の先がわずかに広がり、そこには渦巻いた黒い泥が地表に湧き出している“小さな泉”のようなものが見える。
 森の粘液、あるいは腐った水脈が地下に染み出しているのか――耳を澄ますと、コポコポと不気味な泡立つ音が連続していた。
 その中心に、何かが鎮座している。岩なのか、根の塊なのか、一見区別がつかない塊。だがその“塊”は脈動していた。心臓のように規則的な振動を放ちながら、こちらにわずかに反応している。

 「……あれが、森の……?」
 思わずつぶやく。言葉にすればするほど、胸の奥で記憶が疼く。幼かった頃、あれと似たものを見たような気がしてならない。
 結界を張る“森の核”とも呼べる存在なのかもしれない――それとも、封印されている“何か”なのか。
 重苦しく響く鼓動が、レイナの心音と同調するかのように早まっていく。あの咆哮の主がここに潜んでいるのかもしれない。

 奇妙な心地よさ――まるで優しい故郷に戻ってきたような感覚と、得体の知れない恐怖が同時にレイナを飲み込む。
 そして、ふと背後に“視線”を感じた。先ほどまで上に残っていたはずのゼラチン獣なのか、それとも別の存在なのか……。
 振り返ると、陰影の深い岩の隙間に、すうっと静かな気配が揺らめいた。それは幼い頃に自分を導いた“大きな影”に似ているような気がする。
 (思い出せそうで、思い出せない……)

 たった一つわかるのは、レイナがこの場所へ導かれるのは“必然”だということ。そして、この記憶を取り戻さなければ、結界の謎も、森がレイナに求めているものも決して解明できないということ。
 再び、低く腹に響くような唸り声があたりを包み込んだ。大地がわずかに揺れ、泉の泥が大きく波紋を描く。
 レイナは息をのむ。脈打つ塊が、今にも目を覚まさんとするかのように、その鼓動を強めていた。まるで彼女の到来を待ちわびていたのかもしれない。
 幼い頃、この場所を訪れた自分は、いったい何を見たのか。そして、どうやって外に戻ったのか……。

 記憶と現実が交差する中、彼女は一歩、また一歩と塊に近づく。
 森の奥深く、“結界”の中心へ。
 もう、後戻りはできない。それでも、不思議な懐かしさが彼女の心をどこか温かく包み込み、前へと進む勇気を与えてくれている。
 ――あの日、幼いレイナの小さな手を引いた“存在”が、今もこの森で待っているのだろうか。

  

第7章:監視の闇

   

 脈打つ塊を目の前にして、レイナの足が自然と止まる。地下空間に満ちる湿った空気は粘度を増し、肌に張り付いてくるようだった。鼓動が早まるたびに、頭の中で甲高い耳鳴りがこだまする。
 先ほどまで感じていた、不思議な懐かしさや安堵感が嘘のように消え去り、背筋を撫でる恐怖のほうが強くなってきた。

 (どうして……こんなに寒いのに、汗が止まらない……)
 呼吸は浅くなり、何かに見られている――いや、検分されているという感覚が強くなる。森の視線が肌を舐め回し、内側を穿るようにじわじわと浸透してくる。

 ――ここへ誘われたのは、恐ろしい“目的”があったのかもしれない。
 再び幼少期の微かな記憶がよぎる。あの夜、森の中を彷徨っているとき、不気味な影が複数距離を保ってついてきた。何度も振り返ったが、すぐには姿を捉えられない。
 けれど、その“影”はどこか熱のない目で、まるで研究者が実験動物を見るようにレイナを見つめていた……。じわじわと思い出されるゾッとする感覚。

 あの“影”が、今この空間にも潜んでいるのか。それとも、あの正体こそがこの森の中枢なのか――。
 塊の鼓動がさらに強まり、地下空洞の壁が小刻みに震えた。狭い通路の奥からは、吐息とも呻きともつかない不快な音が断続的に響いてくる。

 気が付けば足元には影のような“何か”がまとわりつき、どろりとした泥や苔の粘膜が絡み合い、ずるりずるりと蠢いているように見えた。首筋にチリッとした痛みを感じる。思わず右手で触れると、そこには小さな違和感――まるで焼き印のような跡ができはじめている。
 「な、なに……これ?」
 気のせいかもしれないと指でなぞるが、皮膚の表面が少し腫れて、妙な痣のような文様が浮かび上がっているようだった。形ははっきりしないが、蜘蛛の巣のように広がっている。

 ビクリと身をすくめる間にも、その文様はかすかに脈動を刻む。
 (いつからこんなものが……?)
 幼少期の森で何かに触れられたときについた痕跡が、今になって浮かび上がっているのだろうか。ひどく嫌な予感がした。
 まるで森が“タグをつけた獲物”を再び回収するように、傷跡が活性化しているのではないか――そんな想像が、背筋を凍らせる。

 記憶の片隅に、暗い闇の中で何かが自分を抱き上げ、身体に爪を立てたような感触を今更に思い出す。幼いレイナは痛みを感じる暇もなく意識を失い、気づけば両親のもとに戻されていた。
 あのとき森はレイナを捕らえようと思えば捕らえられたはず――それでも返された。
 (私、ずっとマークされてたの……?)
 その考えが頭に浮かぶと同時に、洞窟に一陣の風が吹き込んだ。普通なら通気の悪い地下空間に“風”など来るはずもないのに。

 ――ぞわり。
 肌を撫でる冷たい風とともに、空間の闇がじわりじわりと歪む。森の意思がまた一段と活性化したのか、壁面に張り付いた苔の群れが、どろりと垂れるように溶け始めた。
 苔と泥と根が交じり合い、そこからゼラチン状の獣を思わせる“形成途中の生きもの”がいくつも浮かび上がっている。まるで実験室のフラスコで培養されている細胞のように、不完全な形でうごめいていた。

 「あれは……」
 地上で出会った半透明の獣。その原形だろうか。まだ定まらない輪郭が、粘着質の水泡のように膨らんだり萎んだりを繰り返している。
 自分の存在に反応して、何体かがぬるりと壁から這い出し、床に落ちると、不安定な四肢をもつ姿へ変化していく。

 (どうして……? こんなのが、量産されてる?)
 目を疑いたくなる光景に、言いようのない嫌悪と戦慄が湧き上がる。
 レイナは後ずさるが、その動きを察知したのか、未完成のゼラチン獣たちが一斉に振り向いた。目も鼻先もわからないのに、確かに“こちらを見ている”のがわかる。

 彼女の首筋で脈打つ刻印がジンと痛み、同時にゼラチン獣の表面も反応するように波打った。
 ――観察されている。かつては小さすぎた“観察対象”を、呼び寄せ今ここで回収している。そんな嫌なイメージが頭を駆け巡る。
 「私は……、誘い込まれたの……?」
 この森に自分を受け入れてくれる優しさがあると、一瞬でも思った自分の愚かしさに頭が重くなる。突きつけられるのは“利用”という冷たい現実。
 床を這うように近づいてくる未完成のゼラチン獣が、次第に形を整えながら迫ってくる。数は3体か4体か――闇の奥にもまだいるかもしれない。
 体表がぷるんと震えるたび、そこに溜まる黒い液体がゆっくりと循環しているのが見えた。まるで彼女を品定めしながら囲い込む狩人のようだ。
 息を止め、逃げ道を探すが、先ほどの塊や泥沼の泉、岩壁に張りつく培養体たちが行く手を塞いでいる。

 突如として、もっと奥深くから唸り声とも苦悶ともつかない叫びが響いた。空気が震え、洞窟の天井から粘液が垂れてくる。
 先ほどまでの“心臓”のような塊が、何か重大な変化を迎えているのかもしれない。レイナがそちらに意識を奪われた一瞬、ゼラチン獣たちがじわりと距離を詰めた。
 「やだ……来ないで……っ!」
 恐怖のあまり声を上げるも、彼らはひたすら無表情に近づいてくる。まるで観察が終わり、次の段階――捕獲あるいは回収に移ろうとしているかのようだった。

 そのとき、レイナの首筋で刻印が疼き、視界がぐにゃりと歪む。
 “外で成長した”彼女の心や身体が、まるで森に回収されるためのデータを凝縮している――そんなイメージが脳裏を貫く。自分の記憶や感情まで、ずるずると引き剥がされそうになる予感がレイナを貫く。
 歯を食いしばり、必死に意識を保つ。今ここで意識を奪われたら、二度とこの暗闇からは出られない。いや、それどころか“自分”という存在そのものが失われてしまうかもしれない。

覚醒する拒絶
 「やめて……近寄らないで……っ!」
 レイナが叫んだ瞬間、刻印からじゅっと熱い痛みが走り、淡い光が弾けるように散った。次の瞬間、ゼラチン獣たちが揃ってピタリと動きを止める。
 どうやらレイナの身体に備わった“結界を破る力”が、逆に森の制御から一瞬だけ外れたのかもしれない。観察対象であるはずの彼女が、無自覚ながら何らかの抵抗手段を発動したのだ。

 「……私……」
 自分の中にある力を実感する間もなく、ゼラチン獣たちは苦しむように身体を震わせ、再び不安定な形へと崩れていく。彼らにとって、レイナの力は予想外のノイズとなったのかもしれない。
 そして――その混乱を振り払うように、今度は洞窟全体が轟音とともに揺れ動いた。天井を支える岩が軋(きし)み、どこからか溶岩にも似た熱気が吹き出す。

 この森の“本体”が怒り出したのか、それとも計画に支障が出ているのか――詳しいことはわからない。だが、レイナはこの混乱を好機と捉え、必死に目を見開いた。
 (ここから逃げ道を探すしかない……!)
 わずかでも外へ繋がるルートがあれば、あるいは別の空間へ移動すれば、一旦は難を逃れられるかもしれない。

 しかし、奥へ進むということは、より森の中枢へ近づくことでもある。逃げるか、先へ進むか――迷う思考を裂くように、再び遠くから絶叫が響いた。
 その声はまるで、森の主が自分の“実験動物”に逃げられまいと狂乱しているようにも思える。ねっとりと粘ついた殺意がじわじわと空間を満たし、レイナの呼吸を奪う。
 ――最悪の結末がすぐそこまで迫っている気がした。

 

第8章:回収

  

 洞窟の奥で狂乱のような咆哮が響き渡る。岩盤がきしみ、壁面にこびりついた苔や根が泥となって剥がれ落ち、粘り気を増した黒い水たまりがあちこちに広がっていく。
 レイナは脈打つ刻印の痛みに顔をゆがめながら、崩れていくゼラチン獣たちを横目に後ずさっていた。

 ――選択の猶予は、ほとんど残っていない。
 逃げ道を探すため、視線を巡らすが、どこも泥や瘴気で覆われ、まともに歩くことさえままならない。かといって、このまま森の核心へ足を踏み入れれば、さらなる未知の恐怖に飲み込まれるのは目に見えている。
 周囲には、先ほどのゼラチン獣の胎動が続いており、どこかからかすかなうめき声――あるいは呼吸音が感じられた。

 (もう……出口なんて、ないのかもしれない)
 一縷の望みを抱きたいのに、冷徹な現実がそれを否定する。森の実験装置じみたこの空間は、まるで“生きたラビリンス”のように構造を変え、獲物を絡めとる仕組みなのだろう。
 足元の泥からは小さな気泡が浮かび、粘つく視線が再び背後を舐め回す。壁が動いているわけでもないのに、見えない何かがそこにいる――そう感じた瞬間、刻印がまた一段と熱を帯びた。

 「っ……いや、来ないで!」
 振り返った先には、いつの間にか“人間のようなシルエット”をまとう影が佇んでいた。顔の輪郭は曖昧で、身体の至る所に苔とゼリー状の膜が付着している。
 それはまるで、森が複数の要素を組み合わせて作った“模造体”――。一見すると人型だが、まばたきも呼吸もなく、ただ虚ろな眼窩だけがレイナを観察している。

 (あれが……この実験場を支配しているの?)
 恐怖に飲まれそうになるが、ここで屈すれば一瞬で取り込まれるだろう。レイナは握りしめた拳から血がにじむのも気づかず、必死に睨み返した。
 しかし、相手は人の言葉を発することなく、するすると近寄ってくる。その歩みは遅いが、確実にレイナの逃げ道を塞ぐコースを取っていた。背後には粘つく沼、左右には未完成のゼラチン獣たち、前には“人型”の影。

 「私は……実験動物じゃない……!」
 声を振り絞るも、その言葉は悲しく洞窟に反響するだけ。森の中枢を担う存在なのか、それともただの下僕なのか――いずれにせよ、こちらの意思を組み取る気はないようだった。

  
 次の瞬間、人型の影が腕を突き出すと、ゼラチン質の触手のようなものがしなやかに伸びた。まるで鞭のように空気を裂き、レイナの足元へ絡みつく。
 「やめて……! 離して!」
 もがけばもがくほど、触手は足首から膝、腰へと巻き上がり、ひどい力で締め付けてくる。肌に吸い付くような粘膜がじわじわと侵食し、足の感覚がなくなっていく。

 必死に手を伸ばし、岩の突起を掴もうとするが、そこもぬるりとゼラチン状の物質に覆われ、滑ってしまう。
 「……やだ、こんなの……っ、あぁ……!」
 悲鳴とも嗚咽ともつかない声が洞窟に響く。触手がレイナの身体を引きずり倒すと、彼女の後頭部に冷たい泥の感触が広がった。

 呼吸が苦しく、肺が押しつぶされそうだ。必死に抵抗しても、粘度の高い液体が腕に絡まり、力が入らなくなる。冷たさと熱さが同時に肌を刺し、視界が霞む。
 (死にたくない……! こんな形で終わりたくない……!)
 心が悲鳴をあげるが、恐怖はさらに深く食い込んでくる。首筋の刻印がバチバチと刺激を放ち、レイナの意識を一瞬だけ暗転させた。

 視界が戻ったとき、そこには奇妙な光景があった。黒い泥や苔に覆われているはずの洞窟が、まるで白い研究室のようになっている――いや、幻覚かもしれない。
 彼女の周囲を囲むのは人型の影たち。しかし、その顔は苔や闇でできており、どろりと溶けかけた目がこちらを覗いている。
 ぼそぼそと何か話しているようだが、人語ではない。あたかも “実験体のデータ” を読み取るかのようにメモを取る動作を繰り返し、レイナをじっと見下ろす。

 (なんなの……これは……夢? それとも森が見せている幻?)
 頭の中で鈍い音が響き、背後に何か冷たい器具が当たる感触。彼女はまるで解剖台の上に乗せられたように身動きできない状態だ。
 刻印を通じて、モルモットのように身体を検分されている――そんな恐怖が五感を蝕む。

 「助けて……助けて……!」
 声にならない声をあげた瞬間、ふいに景色が暗転し、また洞窟の闇が戻ってきた。だが、今度はレイナの全身がゼラチン質に包まれ、足どころか腕もほとんど動かせない。
 地面との距離が妙に近い。視線を下げると、自分の脚がぬるりと溶けるように飲み込まれつつあった。何が起きているか理解する間もなく、背後から圧倒的な力が身体を押し、暗い沼の奥へと引きずり込まれていく。

 「や、やだ……嫌あぁぁ――……」
 沼の表面がざばりと波打ち、レイナの体は頭頂部まで沈んでいく。狭く、粘つく闇の底で、彼女の意識は少しずつ薄れていった。刻印が最後まで強い痛みを放ち、まるで“データ送信”でもしているかのように脈動を繰り返している。


 数秒後、泥沼は何事もなかったかのように静まり返った。
 地下空洞の揺れも止み、不完全に培養されていたゼラチン獣や人型の影たちは、まるで任務を終えたかのようにゆっくりと壁や床の裂け目へ溶け込み消えていく。
 暗い洞窟には再び静寂が戻り、ただ時折、どこか遠くから水滴の落ちる音が聞こえるだけ。レイナの姿は、そこにはもうなかった。

  

 捕獲完了。
 森の意志がそう囁くかのように、残された闇の空間が一斉にうねり、深く満足げな吐息を洩らす。

 地上では、相変わらず分厚い結界が森を覆っている。外の世界は何も知らず、結界の内側で何が起きたかを知る術はない。
 かくして、二度目の迷い込みは最悪の結末となり、レイナは森の奥底に消えた。利用価値を見極められた結果か、あるいはさらなる実験への素材としてか――真実を知る者は、もうどこにもいない。