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再び巡り合う

◆あらすじ

高校に入学したばかりの主人公は、新しい制服にまだ慣れない日々を送っていた。昼休み、掲示物を貼るために廊下を歩いていたところ、偶然にも小学校時代の友人であるシンジと再会する。

久しぶりの再会に戸惑いつつも、昔話に花を咲かせ、まるで時が止まったかのような錯覚を覚える主人公。

しかし、別れ際、シンジが以前よりも大人っぽく、かっこよくなっていることに気づき、胸がざわつき始める。懐かしい再会から、新たな感情が芽生え始める春の物語。

※以下の内容が含まれます※
恋愛、女主人公、高校生、青春

  

◇再び巡り合う

  

 新しい制服に、まだ少し違和感がある。
 高校生活が始まって数日、校舎の構造もクラスの空気もまだ手探り。
 昼休みになって、掲示物を貼るように頼まれた。掲示板を探して廊下を歩いていたとき、不意に肩がぶつかる。

 「――わっ、ごめ…」

 振り向いたその瞬間、目が合った。
 声より先に、記憶がざわめく。

 「えっ、お前……」
 相手の驚く顔が見える。

 「……マジで?シンジ?」
 思わず、名前が口をついて出た。

 小学校の頃、一緒に遊んでいた“友達”。
 転校してから、もう会うこともないと思っていたその人が、目の前に立っていた。

 「まさか同じ高校だったなんて」
 にわかには信じられない出来事だった。

 「なんか背、伸びたね」
 昔は変わらないくらいだった身長を、シンジは追い越していた。 

 「お前も変わんねーようで、ちょっと変わったな。制服似合ってんじゃん」
 シンジは軽い調子で言って笑顔になる。

 再会は、あっさりしていて、昔話もノリも自然に出てくる。
 思い出して笑う。
 ほんとに、“懐かしいあの頃”に戻ったみたいだった。

 「じゃあ、また。校舎で迷うなよ!」
 「はいはい、先輩面しないで」

 そう言って別れた帰り道。
 風が吹いて、並木道の新緑が揺れる。

 ふと、頭の中にさっきの顔が浮かんだ。

 シンジはちょっと、かっこよくなっていた。

 あの頃の、やたら元気な笑顔じゃない。
 なんていうか、目つきが少し変わってて。
 大人っぽくなったっていうか……。

 「……うわ、やだ。なんか、変に意識してんの私だけじゃん」

 苦笑いしながら歩き出す。
 制服の袖口が、少しずつ体に馴染み始めた春の終わりだった。

 次に会ったのは、ほんの三日後だった。
 昼休みの購買前、パンの列に並んでいたら、ふいに声をかけられた。

 「お、また会ったな。新入生、ちゃんと学校慣れてきたか?」
 「……やっぱり先輩面したいんだ?」
 「いや、してないけど?後輩が困ってないか気になるだけ」
 「それを先輩面って言うんだけどな」

 笑いながら、列を抜けて自販機の前に移動する。
 隣に並んで歩く距離感は、なんだか昔と変わらない。
 けど、同じじゃないのは、ふと横を見たとき――
 顔の輪郭が少し大人びていて、目元が思い出より静かだった。

 「そういや、あのときさ」
 と、向こうが言った。
 「一緒に行ったよな、図書館の奥の資料室。勝手に入って先生に怒られて」
 「あー……あれ、今思うと普通に怒られて当然だったよね」
 「だよな。でもお前、反省してる顔全然してなかった」
 「だって面白かったじゃん。あのとき、隠れてた本の棚見つけて、すっごい誇らしげだったの、覚えてる」
 「……マジで?」

 ふたりで思い出話をくすくす笑う。
 過去の記憶はまるで昨日みたいで、けど、目の前の相手は確実に“今”の顔をしていた。

 「……なんか、不思議」
 と、ポツリと口に出た。
 「ん?」
 「ううん、なんでもない。ただ、ほんとに偶然なんだなーって。 また同じ学校に通って、またこうやって喋ってるの」

 「うん。……でもさ」
 彼はジュースの缶を開けながら、ちょっとだけ真面目な顔になった。
 「偶然っていうより、こう……巡り合わせってやつじゃね?」
 「めぐりあわせ?」
 「そう。俺たち、あのときはただの“子ども”だったろ? でも今は――」

 そこで言葉を切ったあと、彼は軽く笑って首をすくめた。

 「まあ……、また遊ぼう!」
 「……うん」

 返事をした声が、ほんの少し遅れたのは、
 きっと自分でも気づかないくらい、気持ちが揺れたから。

 待ち合わせをしてもないのに、小学生の頃のように校舎の入り口にシンジが待っていた。
 ふたりで歩く帰り道、春の風が吹き抜けるたび、枝先の若葉がきらきらと光っている。

 気づけば、顔を合わせる頻度が増えていた。
 シンジが会いに来る場合もあるし、私が訪ねることもあった、
 けど、それだけというわけでもなく……。
 偶然が何度も重なるうちに、それは“たまたま”じゃなくなっていった。

 朝の昇降口。
 彼が廊下の端でジュースを飲んでいて、こちらに気づいて片手をあげる。
 それを見て、軽く頷き返す。それだけ。

 たとえば、昼休み。
 購買に行くと、ちょうど二人で並ぶ時間が重なる。
 並んで歩いて、何でもない話をして、パンを買って、でも帰るときはそれぞれ別の場所に戻ったりする。
 それが、なんとなくちょうどいい距離だった。

 放課後、教室の掃除当番になった日。
 ほうきを片手にふらふらしていたら、窓の外のベンチに彼の姿が見えた。
 何かを見ているようだ。掃除を終えたあと、なんとなく外に出てみた。

 「なにしてんの」
 「いや、たまにここでぼーっとするの、好きなんだよな」
 小学生の頃、たまに彼が空や景色をじっと見ていたことを思い出す。
 「ふーん……てか、あんたほんと変わんないよね」
 「え、そう?」
 「うん。やってることは昔と一緒。でもさ……」

 言いかけて、やめた。

 目の前の彼は、変わってないようで、でも確実に変わっている。
 姿勢も、しゃべり方も、表情も。
 それにたぶん、自分も。

 「こっち来る?」

 「じゃあ、ちょっとだけ」

 隣に座ると、風が吹いて、新緑の匂いがふわりと通り過ぎた。

 「ねえ」
 「ん?」
 「また、一緒に遊びに行く?」
 「どこかへ遊びに?」
 「別に、遠くじゃなくていいからさ。今度の休みとか」
 「……ああ。いいよ」

 その返事が、なんだか妙に自然で、
 けれど少しだけ胸が高鳴ったのを、自分でごまかすように立ち上がる。

 「じゃ、決まりね」
 「おう」

 その声も、風にまぎれて、やけに軽かった。

 約束していた休日、結局どこに行くでもなく、ふたりで駅前の本屋をぶらついた。
 買うわけでもない本を手に取って、なんとなくページをめくる。
 隣から「それ、絶対途中で飽きるやつじゃん」と茶々が入る。
 言い返して、笑って、何も変わらないようで、
 でも、それがたまらなく楽しかった。

 帰り道、駅の改札前。
 もう夕方になりかけていて、春の光は傾いていた。

 「また遊ぼうぜ」
 「うん、そうだね」

 そう言って、彼が手を振ろうとしたとき。
 ふと思いついたように、口を開いた。

 「……さ、次はさ」
 「ん?」
 「“遊ぶ”じゃなくて、“どっか行こっか”にしない?」
 「……なにそれ、言い方の問題?」
 「うん。言い方の問題」

 彼は一瞬、きょとんとしてから、
 ふっと笑った。

 「じゃあ、次も“どっか行こっか”」
 
 笑いながら、今度は本当に手を振る。
 その背中を見送りながら、
 自分の頬がちょっとだけ熱いことに気づいた。
 
 春の終わり。
 名前はまだないけれど、何かがちゃんと、始まっていた。
 
 
 
〈終〉

  

※この作品はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

  

はじまりは卒業式で

◆あらすじ
卒業式の日に、主人公の「私」は、かつて告白して振られた彼から声をかけられる。一年半前、放課後の渡り廊下で告白したものの、「ごめん」の一言で終わってしまった恋。卒業式という特別な日に、二人きりの教室で、あの日の告白と、彼の言葉の真意が語られる。終わったはずの恋が、再び動き出す予感を感じさせる物語。

※以下の内容が含まれます※
恋愛、青春、告白

  

第一章:卒業式は晴れ

 

卒業式の日は、晴れていた。

空は春のかすんだ青。
体育館に向かう通路では、スーツ姿の保護者たちと制服の生徒たちがすれ違い、カメラのシャッター音が何度も鳴っていた。

教室に残された黒板には「卒業おめでとう」のチョーク文字。
その下には、誰かが描いた大きな桜の花がまだ残っている。

私はというと、その黒板に背を向けて、窓から校庭を見ていた。

みんな笑っている。
楽しそうに写真を撮り、じゃれ合い、名残惜しそうに去っていく人へ手を振っている人もいる。

――なのに、どうしてだろう。
この日を“終わり”として感じられずにいた。

胸の中に引っかかっていたのは、ひとつの“未完”だ。

「……まだ、終わってない気がするんだよな」

思わず声に出してみたけれど、返事はない。
そもそも誰かに言ったわけでもない。

ほんの独り言だった。

でもその時、不意に背後から声が届いた。

「終わってないなら、ちょっとだけ時間をくれないか?」

驚いて振り返ると、そこにいたのは――
かつて一度、告白して、振られた人だった。

彼は変わらず、あの頃と同じ、少し不器用な笑い方をしていた。

  

私が彼に告白したのは、一年半前の秋だった。
放課後の渡り廊下で、誰もいない瞬間を選んで、緊張で声が震えるのを無理やり押さえて。

「ごめん」
その時の彼の声は、少しだけ掠れていた。

理由は聞かなかった。
聞いてしまえば、変に期待してしまいそうで。

それから私たちは、必要以上に距離を詰めることなく、ただクラスメイトとして、時間を過ごしてきた。

卒業式も、何も話さないまま終わると思っていた。

だから――今、彼が自分から声をかけてくれたことに、ほんの少し驚いていた。

「座ろうか?」

そう聞くと、彼は短く「うん」とだけ言って、窓側の席について椅子を私の方へ回した。

ふたりきりの教室。

机と椅子は彼以外空っぽになっていた。がらんと広くなったように感じる空間。
昼を過ぎて暖かみを帯びた光が窓から差し込み、床に長く影を落としていた。

彼は照れているのか、私に目を向けずに言った。

「卒業、おめでとう」

「うん。……おめでとう」

言葉を返してから、少しだけ胸が締めつけられる。
ほんとうに、今日でこの制服とも、ここでの関係とも、お別れなんだ。

だけど、目の前の彼がこの教室に来た理由は、たぶん他にある。

あの日、何も聞けなかったままにしたこと。
それを、この春の夕暮れに、ようやく言葉にしてもいいんじゃないかと思えた。

そのとき、彼がふとこちらを見て、少しだけ口を開いた。

「……あの時のこと、まだ引っかかってる?」

私が頷いたのは、自然だった。
心のどこかで、やっぱりそうだよねって、思っていたから。

 

第二章:誰もいない教室、あの時の話

 

夕陽が差し込む教室は、暖かくて、少しだけ寂しかった。
窓際のカーテンがゆらりと揺れて、机の影が細く長く伸びている。

私は向かいの席に腰を下ろした。
向き合って座るのが、なんだか気恥ずかしいような、それでもちょっと嬉しいような気持ちだった。

彼は少しだけうつむいて、窓の外を見ていた。
しばらく、沈黙が流れる。

でも、気まずくはなかった。
それが逆に、心をざわつかせた。

「さっき……“引っかかってる?”って聞いたけど」

私は口を開いた。言葉が少しずつ形になっていく。

「うん。たぶん、ちゃんと理由を聞けなかったからかな。
あのとき、“ごめん”しか言わなかったでしょう?」

彼は、ほんの少しだけ口元をゆるめて、目を伏せた。
そして、ゆっくりと話し始めた。

「……あの時、ちゃんと理由を言うと、君に“期待させる”と思ってた。
“今は無理だけど、いつかは”とか。そうやって、引き留めるようなことは言いたくなかった」

一拍置いて、彼は続ける。

「俺、家がちょっと複雑でさ。
親のことでバタバタしてて、進路もギリギリまで決まらなくて、
“人のことを好きになる余裕”が、自分にはないと思ったんだ」

私は黙って、彼の声を聞いていた。

「でも、ずっと頭のどこかにはあった。あのとき、ちゃんと話しておけば――って」

言い終えると、彼は一度だけ深く息をついた。

「……今さら、ずるいかもしれないけど」

私は首を振った。

「ずるくなんてないよ。
あの時、私だって“知りたくない”って思ってたのかもしれないし」

彼は驚いたように、こっちを見た。

私は続ける。

「“振られた理由”って、聞いてしまえばそれで終わる気がしてたから。
まだ、“好き”って気持ちを持っていたい自分がいたんだと思う」

目をそらさずに、静かに彼を見る。
彼もまた、何も言わずにその視線を受け止めてくれていた。

そうしているうちに、少しずつ――あの頃より、ちゃんと互いを見られている気がした。

教室の時計が、5時を少し過ぎていた。

「あっという間だな、今日」

彼がぽつりと言った。

「ほんとに。でも……今話せて、よかった」

私の言葉に、彼は小さく笑った。

その顔は、あの時の“ごめん”の時とはまったく違って見えた。

春の終わりが、ほんの少しだけ“始まり”に変わったような、そんな気がした。

 

第三章:選ぶということ

  

誰もいない廊下、しんとした校舎に、とくとくと自分の心臓の音が響いてる気がする。。

私は窓際の外、赤くなる空を見上げる。

彼はまだ椅子に座ったまま、腕を組んでこちらを見ていた。
真剣でも、照れてもいない、ただ静かに見ているその視線が、少しだけ胸に刺さる。

「……ずっと迷ってた」

彼がぽつりと言う。

「君に、今日話すべきかどうか。なんなら、このままもう会わないままでもよかったのかもしれないって」

私はふっと笑って、彼を見返した。

「それはそれで、すっごい後悔するやつだよ?」

「だよな」

そう言って、彼はようやく小さく笑った。

そして少しの沈黙のあと、続けた。

「俺、春から東京に行く。もう決まってて、引っ越しも近いんだ。だけど、今日の卒業式が近づくにつれて、君のことを考える時間が増えてた」

「……うん」

「なんで振ったんだっけって、自分に何度も聞いてさ。で、気づいた。振ったからって、俺の気持ちまでなかったわけじゃないんだよなって」

私は息を止めた。

その言葉は、たぶんずっと心の奥で待っていた言葉だった。

でもそれと同時に――
今、それを言われることで、自分の心がどう揺れるかも怖かった。

だけど、目をそらすのはやめようと思った。

思わず顔を彼に近づけて、言った。

「じゃあ、今は?今のあなたは、どう思ってるの?」

その問いに、彼は少しだけ目を見開いた。
そして、言葉を選ぶように、ゆっくりと――

「……もう一回、今度は俺から言ってもいいかもしれないって」

教室の窓を打つ雨音が、一瞬だけ遠くなった気がした。

それは、過去の続きじゃなくて、今から始めるという選択だった。

私は、頷いた。

「期待してもいい?」

その言葉に、彼の目尻が緩む。

「頑張る」

「……もう、そういうの、ずるいって」

 

彼の言葉を窓から入った暖かな春の風が流していく。
いつからか冬の風の中から寒さが消えて、吹く風に心地よさを感じるようになった。

それをいつ心地よく感じたのか思い出せなかった。

    

彼の声は少しだけ震えていた。

ふたりの距離は、自然に近づいていた。
誰にも見られていない教室で、言葉では言い切れない何かが交わされる。

それがたとえ、遠い距離になったとしても。
たとえ、また不安になる日が来たとしても。

今、この時間だけは、
選んだんだ。もう一度、あなたを。

  

最終章:春の中にいる

  

ふたりで下駄箱まで向かう廊下には、もう誰の気配もなかった。

昼間はあんなに騒がしかったのに、今はただ、私と彼の足音だけが響いている。

「誰もいないね?」

「うん。……最後の日だから何人かは残ってると思ってた」

「じゃあ、帰るのやめる?」

「え、それってどういう……」

彼は笑って首を振った。

「冗談。でも、なんか今日だけは、もうちょっとだけこの学校にいたい気分」

「……わかるかも」

並んで外に出ると、草の匂いや花壇に咲く花が、春の夕方らしくてどこか心地よかった。

私たちはそのまま、グラウンドの横を歩く。

少し先で、桜の木がぽつんと立っている。
風に散る花が、花吹雪のように舞っていた。

「またここに来たいな」

私が言うと、彼は立ち止まって、真顔で答えた。

「じゃあ、来ようよ。いつでも。ふたりで」

その言葉は、特別な約束みたいに聞こえたわけじゃない。
でも、それでも私はちゃんと嬉しかった。

「……うん、来よう」

気づけば、手が触れていた。
お互いに握るでもなく、繋ぐでもなく、ただ指先がふれている。

それだけで十分だった。

坂道を下りていく。
夕陽の中、街の明かりがぽつぽつと灯り始めている。

「ねえ、あのとき、なんで“ごめん”しか言わなかったの?」

ふと思い出して聞くと、彼は笑って、答えた。

「……ごめん、って言っておけば、君が“嫌いにならないでくれる”気がしたんだ」

私は吹き出しそうになった。

「最低じゃん、それ」

「うん、だからもう一回……いいだろもう?」

「保留にしとく」

彼の顔を見て、そう言った私の声は、たぶんもう晴れやかだった。

一つの終わりと、春の始まりが混じる空気の中で、
私たちは歩き出す。

ちゃんとお互いの顔を見て、
ちゃんと選び取った答えを胸に――

  

   

はじまりは卒業式で〈終〉

  

  

※この作品はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

  

君は7月の雨だった Rain-in-july

あらすじ
主人公の「俺」は、祖母の家に帰省した町で、雨の中傘も差さずに佇む不思議な雰囲気の少女・結月と出会う。声を出せないという噂の彼女は、口の形で言葉を伝え、二人は少しずつ距離を縮めていく。夏の終わりの別れを予感させながらも、二人は言葉を超えた絆を育んでいく。

※以下の内容が含まれます※
恋愛、青春、悲恋

   

1. 雨の中の彼女

   

雨が降ると、彼女は外に出てきた。
それも決まって、傘を差さずに。
濡れるのが好きなのか、それとも――。

「傘差さないんですか?」

ぽつぽつと降る小雨の中、そう言っても、彼女は返事をしない。ただ、微笑んで頷くだけ。
それが、最初の“会話”だった。

彼女の名前は、結月(ゆづき)。
声を出せないという噂があったが、誰も確かなことは知らない。
誰とも深く関わらず、ただ静かに存在していた。

そして、俺は祖母の家に帰省していた。
この町に戻るのは、三年ぶり。
高校を卒業し、都会の大学に通う俺にとって、ここはもう「一時的な場所」でしかなかった。

でも彼女だけは、一目見た時からなぜか記憶に残り続けていた。
 

次に会ったのは、夕暮れの図書館だった。
窓から射す茜色の空気の中、彼女は古びた文庫をめくっていた。

俺は声をかける代わりに、近くの席に座り、ノートにこう書いた。

《雨、好きなんですか?》

彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから口を「ア」と形作った。
だけど、音はない。

そして、自分の指でゆっくりと空中に文字を書いた。
目でその指を追う。

「あ・め・が・す・き。ぬ・れ・る・の・は・き・ら・い」

なんだそれ、と笑ってしまった。
そしてそれが、俺たちの始まりだった。

  

彼女は言葉を「口の形」で伝える。
当てっこみたいに読み取るのは難しいけど、それもまた楽しかった。
正解したときに見せる小さなガッツポーズや、間違えたときの「ぷくっ」とした不満げな顔。
それが、声以上に饒舌だった。

ある日、ベンチに並んで座っていたとき。
俺は何気なく、ノートにこう書いた。

《この町には、ずっといるの?》

結月は一度こちらを見て、少しだけ考える素振りを見せた。
そして、何かを言うように唇をゆっくり動かした。けれど、読めなかった。

「……ごめん、なんて?」

そう聞くと、彼女はふいっと視線を逸らし、
いたずらっぽく唇だけを大げさに動かしてみせた。

「す・き・な・の?」

わざとらしいくらい、はっきりとした口の形。
からかうように、でもどこか――ちょっとだけ挑発的に。

その瞬間、顔が熱くなった。
まさかそんな返しが来るとは思ってなかったし、ドキッとした自分に驚いた。

でも彼女はすぐに立ち上がって、近くの木の下で待ち合わせでもしているかのように向こう側を向いた。
本当は照れていたのかもしれない。あるいは、これ以上なにも言わせないためか。

からかわれた。
でも、その目の奥に――どこか切ないものが見えた。

まるで、この恋に、期限があることを知っている人間の目だった。

  

7月の終わりが近づくにつれ、日差しが嫌に眩しく感じた。

「8月には、町を出るんだ」

俺がそう告げたとき、結月は少しだけ笑って、「しってた」と口を動かした。

俺は本当は聞きたかった。
「じゃあ、君はどこに行くんだ?」って。
でも聞けなかった。

なぜなら、彼女の中ではきっと――
最初から、これは“終わる恋”だったのだろうから。

 

  

2. 秘密と、約束

  

七月の最後の週。
午後の空は夏の青を通り越して、どこか白みがかった熱を帯びていた。

川沿いの遊歩道、蝉の声が遠く、汗が滲む。

結月は、今日も音のない笑みを浮かべていた。
けれどその笑みは、少しだけ輪郭が淡かった。

俺はコンビニの袋からアイスバーを取り出して、一本差し出す。
結月は目を細めて、小さく口を開いた。

「どうも」

声にならないその音すら、なんだか自然に聞こえた。

ベンチに並んで座り、ふたりで無言のままアイスをかじる。

それだけなのに、胸の奥がじわじわ熱くなる。
言葉がなくても、こうして並んでいるだけで、何かがちゃんと伝わっている気がする。

「声ってさ、なくても意外といけるもんだな」

そう口にすると、結月は少しだけ眉を上げて、からかうような目をした。
そして唇だけで「そ・れ・な」と言った。

クスッと笑ってしまう。
でも――この“穏やかさ”が続かない予感は、ずっと前から胸の奥にあった。

夜。
風が強くなって、遠くで雷が鳴っていた。

祖母の家の縁側に座っていると、カタンと塀を乗り越えるような音がした。
結月だった。
びしょ濡れのまま、髪が頬に貼りついていた。

何も言わずに、俺の横に座る。

「あのさ、風邪引くぞ」

そう言うと、結月は首を振った。
ポケットから取り出した小さなノートに、ゆっくりと文字を書いた。

「眠れなかった。話したかった」

ページをめくると、もう一行。

「明日、いなくなるの」

言葉を追った瞬間、心臓が少しズレた位置に落ちた気がした。

「……どこに?」

彼女は答えず、ただ俺の顔を見ていた。
なにか言いたそうな目をしていたけど、結局言葉にはしなかった。

その代わりに、唇を動かした。

「ひ・み・つ」

だけどそれは、軽い冗談の形をしていたのに、
まるで深い場所からすくい上げた言葉みたい重々しく思えた。

その夜、ふたりで並んで雨を眺めていた。
雷が遠くで鳴って、部屋の中にだけ、しんとした世界があった。

俺は彼女の横顔を見つめていた。

たぶん、この夏が終わるころ、
結月のことを誰に話しても――うまく説明できないんだろうと思った。

「名前、ほんとは違うんじゃないかって思ってる」

そう言うと、結月はふっと息を漏らすように笑った。

彼女は頷き、そっと俺の手を取った。

柔らかくて冷たくて――
でも確かに、そこにいた。

「約束しよ」

そう口が動いた。

俺は言葉を飲み込みそうになって、咳ばらいするように言った。

「……なにを?」

「覚えてて」

ただ、それだけ。
覚えてて。
どこで出会って、どんなふうに過ごして、どんなふうに笑ったか。

たったそれだけのことが、
たまらなく重くて、愛しかった。

  

3. 七月の雨は、君のことを忘れない

  

翌朝、目が覚めたときには雨は上がっていた。
蝉の声が戻ってきて、空がいつもより高く感じられた。

縁側に座って、昨夜のことを思い出す。

結月は、今日いなくなると言っていた。
行き先は告げられず、「覚えてて」とだけ言った彼女。

あの“口の動き”だけが、やけに心に焼きついて離れない。

覚えてるよ。
思い出すまでもなく、ひとつひとつの仕草、まばたき、笑い方。
すべてが、もう体の中に染み込んでいる。

町のバス停に向かったのは、ただ“居ても立ってもいられなかった”という理由だった。

結月がそこにいるかもしれない。当てずっぽうで、馬鹿みたいなことをしている自覚はあった。

周囲を見渡し、行き交う人に遮られた先、バス停のベンチに彼女はいた。

白いシャツと、いつもより少し大きなバッグ。
その姿は、いつもより“現実的”で、逆に遠く感じた。

俺に気づくと、彼女は立ち上がって、少し困ったように笑った。

「ほんとに、行くんだな」

頷く。
けれど、何かを言いかけて、また躊躇うように視線を伏せる。

俺は小さく息を吸って、声を落とした。

「……好きだと思ってた。たぶん今も、好きだと思ってる。
でも、それがどれくらい本当なのか、自分でもまだわかんない」

その言葉を、彼女はじっと聞いていた。

そして、ほんのわずかに口を動かした。

「わ・た・し・も」

それだけだった。
それ以上、なにも言わなかった。

それで十分だった。
たぶん、そういう恋だったんだ。

バスがやってきた。
ドアが開く音と、降りてくる乗客の気配。
その間に、彼女はポケットからひとつの飴玉を取り出し、俺の手にそっと握らせた。

包み紙の端に、細い字で何かが書かれていた。

《恋の運勢、感動的な再会ができちゃうかも》

よくある恋占いつきの飴玉。その軽い文章がいまはひどく胸を掻き乱した。

彼女がバスに乗り込み、窓の向こうに姿を見せる。
俺は手を振る代わりに、結月の口の動きを見た。

最後に、彼女がゆっくりと形作った言葉。

「ありがとう」

音はないのに、なぜか一番はっきりと聞こえた気がした。

バスが走り出し、夏の空気の中に溶けていく。

蝉の声が一斉に鳴き始めた。
アスファルトには、まだ雨の匂いが残っていた。

ポケットの中で、飴玉の包み紙がカサリと鳴る。

そして俺は、確かに思った。

この七月の雨は、きっと一生忘れない。
君のことを、きっと忘れない。

   

〈終〉

  

  

※この作品はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。