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呪いの青風

 

◆主人公

青霧颯太 (あおぎり そうた)
地元の大学に通う大学生。民俗学ゼミのレポートを書くため、『青風羽神社』に現地調査に来た。

◆同じゼミの仲間

夏海 (なつみ)
颯太の恋人で同じゼミの仲間。活発で明るい少女。
タカ
グループをまとめるムードメーカー。
悠 (ゆう)
映像記録係、ビデオカメラ担当。
梨沙 (りさ)
好奇心が強いグループの史料まとめ担当。

 

◆あらすじ

大学の民俗学ゼミに所属する颯太は、恋人の夏海やゼミ仲間(タカ、悠、梨沙)と共に、レポート作成のための現地調査として廃神社『青風羽神社』を訪れる。 初夏のような暑さの中、苔むした石段を登りきり、一行が境内に足を踏み入れようとした瞬間、突風が吹き荒れる。その風の中に、颯太は不気味な囁き声を聞くが、他のメンバーは風に驚いただけで、声には気づいていない様子。空耳かと疑いつつも、拭えない不安を感じながら颯太は境内の中へ足を踏み入れるのだった。

※! ※以下の内容が含まれます※! ※
ホラー、現地調査、大学生、怪奇現象、短編

 

第一章:鳥居で聞こえた囁き

 
 苔生す石段を登り、青霧颯太は大学の民俗学ゼミの仲間と共に廃神社『青風羽神社』を目指していた。

 レポートにするために事前に集めた資料と相違する点がないか、現地調査を行うためだ。すぐ隣には、白いクロッシェの帽子を着けた恋人の夏海がいる。汗が白い喉を伝っていた。
 五月になったばかりだというのに、気温は初夏を通り過ぎて夏の盛りのようだった。

 
 「おーい!」颯太が顔を声の方に向けると、先に着いた同じゼミの仲間であるタカが古びた鳥居の前で声を上げている。律儀に二人を待っているようだった。

 他のメンバーも待機しているようで、撮影担当の悠がカメラをこちらに向けて立ち、梨沙は鳥居の脇に生える杉の大木を見ている。大木には千切れかかったしめ縄があり、誰も手入れをしていないのは確かなようだった。

 
 「着いたぁ!」夏海が石段を登りきって声を上げた途端、突然の突風が吹く。

 
 「……みつけた……」

 

 その風の音に紛れて囁き声が聞こえた気がして、颯太はびくりと周囲を見回す。
 

 「すごい風。倒れるかと思った」木に捕まった梨沙が目を丸くしている。他の三人も風に驚いたようだが、おかしな様子は見えない。あの声は空耳だったのだろうか?

 じわりとした不安が颯太の心に湧く。
 「ほら、入ろうぜ」タカに促され、一行は鳥居をくぐり青風羽神社の境内へと足を踏み込んでいった。

 

第二章:境内の調査

 
 
 社殿跡へ移動すると、梨沙がその跡を調べ、悠が映像記録を取るために歩きまわる。崩れた石塔や祠があり、雑草が視界を悪くしていた。何か資料の足しになるものがないか颯太も歩き出す。

 荒れる境内を見回すと、雑草に紛れて石碑のような物が倒れているのが見えた。字が雨風に削れて分かりにくいが辛うじて読める。

 『青風刎神社』颯太の背筋が寒くなる。それはこの神社の本当の名前だった。廃社となって、地元でこの場所を知っている者はこの神社を『青風羽神社』と呼んでいるが、本当はそうではない。昔、ここで罪人を処刑しその魂を慰霊するために建てられたのがこの神社の成り立ちなのだ。いつの時代か名が変わり、忘れ去られていた。それを颯太たちのグループが資料を元に掘り起こしたのだ。

 「何か見つけたのか颯太!」彼がじっと石碑を見ていると、悠が近寄ってくる。

 「昔の名前が彫られた石碑があった」颯太がそう答えると、悠は嬉しそうな顔をした。
 「大発見じゃないか!」カメラを石碑に向ける。

 その時、再び突風が吹いた。

 「……こっちをむいて……」

 空耳じゃない……!
 どこからか響く声に恐怖した颯太が目をぎゅっと閉じて風が止むのを待つ。風が凪ぐと恐る恐る目を開き、悠へと確認した。
 
 「今の聞いたか?」その問いに悠は答えず、顔を青くしてカメラを構えたまま固まっていた。あの声を恐れているようだ。
 「早めにここを出ようか」と颯太が言うと、すごい勢いで頷く。二人は他の三人のもとへ向かう。

 

第三章:古祠と木箱の発見

 
 社殿跡の確認を終え休んでいた梨沙が、崩れた祠に目を止めた。彼女が祠の前に立つと、地面に何か土を被っている箱のようなものが見えた。

 顔を近づけて確かめてみると、それは半ば埋もれた木箱に見える。

 「ねぇ!みんな来て!」梨沙が大きな声でゼミの仲間を呼ぶ。近くにいたタカと夏海が真っ先に集まり、離れた場所にいた颯太と悠は遅れてしまう。

 「ほら見て」梨沙はせっかちに土を掘り箱を手に取ると中を開けた。箱の中には『青風刎神社』の旧社名と、関係者らしき何名かの名が連なった紙片が入っていた。その名の中には、颯太と同じ名字である青霧の名がある。それを見つけた瞬間、颯太が凍りつく。
 
 「わあ、颯太と同じ名字だ!」嬉しそうな夏海の声がした。颯太が夏海の横顔を見る。彼女も『青風刎神社』の成り立ちを良く知っているはずだった。なにしろ恋人というだけではなく同じゼミの仲間だ。なのに(……何故そんなに嬉しそうなんだ)内心の動揺を悟られないように四人から颯太が距離を取る。この廃社は颯太の地元のものだった。そこで見つけた青霧という颯太と同じ名字、不吉なみつけたという声、じわりと嫌な汗がシャツを濡らす。一致してはいけないものが一致している。

 悠が顔色悪く颯太を見ていた。「大発見だね!」と梨沙達、三人の盛り上がる声が響く。この三人は声を聞いていないのだろうか?それとも聞いた上で……?颯太の心に疑念が顔を出す。

 

最終章:禁忌の伝承

 

 箱の中の他の紙片の一つを梨沙が面白がって読み上げた。「えー……っと、風ニ呼バレカエリミタル者ハ風ニ魂ヲ喰ワ……擦れてるけど喰われるかな?この神社に伝わる伝承みたいね」それを聞いた悠がいよいよ全身をガタガタと震わせる。

 「な、なぁ、もういいだろう?これ以上は罰が当たるかもしれないし帰ろう!十分な収穫だろっ!」悠の叫ぶような大声に、タカ、夏海、梨沙が訝しげになる。悠は落ち着きなくカメラを持つ手を震わせている。四人へ事あるごとにカメラを向けて張り切っていた朝の様子と今はまるで違う。

 「ここまで来たら、隅々まで見て回ろうよ」それに夏海が悠に反論する。

 「僕も帰りたい。すまないけど気分が悪くなってきた」そこへすかさず颯太が割って入った。悠と同意見だった。気分が悪いのも本当だ。
 「そうだな。こんなに暑いんじゃ熱射病になってもおかしくない」タカが賛同してくれた。颯太はホッとする。三人の意見を二人は無視しないだろうと安心したのだ。
 「そうね……、しょうがないか」梨沙の同意する言葉、夏海は残念そうにしたがそれ以上は何も言わなかった。

 五人が境内を出ようとして社殿を背後にして、鳥居をくぐろうとしたその時。

 「……こっちをむいて……」

 ゴウッという突風と共に耳元に声が響いた。「うわああああ‼」たまらず悠が叫び声を上げて、石段を降りていく。「何……?誰か何か言った?悠のやつ、あんなに駆け足で降りて転んだらどうするつもり?」梨沙も悠を心配して急ぎ足で降りていく。
 「なぁ、今の声……」タカが困惑した顔で、横の颯太の顔を見る。颯太はまっすぐ前を見ていた。声の方、背後の社殿跡を意識して、前以外見れなかった。
 「行こう!颯太」常なら明るく場を華やかにする夏海の声と、柔らかい手が颯太に重ねられる。こんなに暑いのに、いつもと違っていやに冷たい夏海の手が颯太の手を引いた。
 「ここで突っ立っててもしょうがないか」そう言ってタカも降りていく。

 『えー……っと、風ニ呼バレカエリミタル者ハ風ニ魂ヲ喰ワ……擦れてるけど喰われるかな?』

 梨沙の読んだ紙片の言葉が颯太の頭の中に繰り返し響いた。喰われたあと……魂が無くなった体はどうなる?

 当然、そんなことを知るものは誰もいない。こちらを見ない夏海の顔が、冷たく固く握られたその手が、颯太の心を底冷えさせた……。

 

呪いの青風〈終〉

 

遭難した宇宙船不思議な救援

 

◆あらすじ
事故で遭難した探査船のクルーである主人公。無人の船内の酸素は数日分、通信装置は破損している。主人公が死を受け入れかけたとき、“何か”が現れる。

それは、人の形を模した実体無き光のもやだった。得体のしれない存在と言葉を交わす、彼の先に待ち受ける結末とは……。

※以下の内容が含まれます※
SF、怪奇、遭難、宇宙

 

 

記録【1】

 

酸素残量:38時間27分。

 

探査船〈セラミス9〉の艦内に、音はなかった。
音というより、動きがなくなっていた。
空調はかすかに生きているが、それもいずれ止まる。
通信パネルの表示が割れていて、信号の送信ログすら読み取れない。

航行の途中やむを得ず船が流星群を通り抜けた際、船体の一部が避けきれず、一瞬で何もかもが沈黙した。
その中で、たった一人だけ――生きていた。

「……なあ、誰かいるか?」

言葉は、壁に当たってそのまま落ちた。
返事がないことにはもう慣れている。
だが、それでもときどき、言いたくなるのだった。
自分の声を聞いていないと、“今、自分がどこにいるか”がわからなくなる。

遠くから金属の軋む音がした気がしたが、それは彼の頭の中で生まれた幻聴だったのかもしれない。
重力が不安定で、眠りも浅い。
水も食料も口にできなかった。
だが不思議と、死ぬのが怖くはない。

怖くない、という感情すら、もう湧かなくなっていた。
 
無為に時間が過ぎ、彼が眠れずに、ただ薄暗いブリッジでじっとしていたとき。“声”を聞いた。

「やあ、これは珍しいものを見た」

ふと、そんな言葉が降りてきた。
どこから? 誰が? 何のために?
そんな問いが脳に届く前に、次の言葉が続いた。

「驚かせたならすまない。あまりにも長い間、忘れていたものだから、触れたくなったんだ」

彼は思わず上半身を持ち上げ、周囲を見回した。
誰もいない。もちろん、そんなことは分かっていた。

「……ああ、これが幻聴ってやつか……?」

「そう思ってもいいよ。でも、わたしはここにいる」

船内で光が、ほんのわずかに明滅した。
そして、空間に“揺らぎ”が生まれた。

人の形をした光。
輪郭は曖昧で、しかし確かに「人」に見えた。
男でも女でもない。
ただ、柔らかく息をしているような存在だった。
 
「……誰、なんだ?」

「わたしたちは、進化したあなたたちだよ。肉体を持つことをやめ、時間を横切るようになった」

「……おとぎ話かよ」

「そう思うなら、信じなくてもいい。でも今、あなたのそばにいるこの“わたし”は――あなたに触れたい」

触れたい?
彼は手を伸ばした。
でも、その“光”は掴めなかった。
空気のようでもあり、水のようでもあり、手のひらをすり抜けていく。

だが、奇妙な感覚があった。

触れていないのに、手を包まれているような。

「わたしは、触れるということを覚えていた。あなたのおかげで思い出したんだ」

その声が、どこか嬉しそうだったのが、彼には怖かった。

 

記録【2】

 

酸素残量:12時間13分。

 

彼はもう、途切れ途切れに眠るたび“その声”と語るようになっていた。
最初は幻覚だと思っていた。
だが、繰り返される対話の中で、自分が“知るはずのない記憶”を共有されるたび、これは実際にここに居る存在なのだと、そう確信するようになった。

「あなたはさみしいの?」

「たぶん、そうだな。みんな先にいっちまったから」
 そうでもなければ、こんな奇妙な奴とおしゃべりはしないだろう。彼は船内唯一の光を見る。

「さみしいまま死ぬのは、悲しい?」

「……ああ」
 この不思議な出会いを歓迎する気になっていた。死ぬ瞬間誰かが傍にいてくれるのは悪い気がしない。

「じゃあ、私があなたとひとつになれば、もう孤独じゃない」

そういうなり、光から手のようなもやが伸ばされる。

逃げる気は起きなかった。

融合の感覚は、やさしく抵抗がない。
触れた部分から、境界がほどけていく。
体温、痛み、空腹、記憶、重さ――
すべてが彼の“中”から離れて、どこかへ溶けていった。

彼の意識は溶けてなお残っていた。
ずっと隣に誰かがいる。そして、そいつは長々と知らない宇宙の旅の話、体を持っていた頃の思い出を語りかけて来たように思う。

「わたしは、あなたの“触れたかった”という感情が、うれしいよ」

 

記録【3】

 

酸素残量:00時間24分。
 
目が覚めたとき、彼は床にいた。
重力が戻っていた。
体の感覚も戻っていた。
自分の手は、しっかりと血が通っていた。
喉は乾いていた。
寒さも感じた。

「……?」

割れた通信パネルが微かに光っている。

『救難信号、応答あり』

点滅するメッセージが割れた画面の端に見える。彼は目を見開いた。

生きているか分からない応答ボタンを押した。

「こちら救助船〈シグナル7〉、着艦態勢に入る。状況を確認次第、回収を行う」

頭が混乱していた。
夢だった? それとも現実だった?
あの光は……?

「久々に、君たちの“助け合い”に加わることができてよかったよ」

そのささやきは、背後から聞こえた。

振り返ると、誰もいない。
だが、床に反射した光の揺らぎが、笑うように揺れている気がした。

ハッチが開いた音がした。
彼はゆっくりと歩き出す。

光に触れた自分の手を見ながら、ふとつぶやいた。

「……夢だったのかな」

そして遠ざかる破損した探査船の灯りが、最後にもう一度だけ、まばたきのように明滅した。
 
 

 

 

※この作品はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

匂いのする本

 

◆あらすじ
大学生のレンは、アルバイト先の古本屋で不思議な文庫本を見つける。その本は、レンの記憶の奥底にある懐かしい香りを呼び起こした。幼い頃に嗅いだことのあるような、甘く、どこか切ない香り。レンはその本に惹きつけられ、何度も読み返すようになる。しかし、本を読み進めるうちに、レンの周りで奇妙な出来事が起こり始める。本の中で描かれた匂いが、現実世界に現れ始めたのだ。

 

※! ※以下の内容が含まれます※! ※
ホラー、本、匂い、バッドエンド、怪奇現象、短編

 

◆匂いのする本 

 

 古本屋の店内は、いつもどこか乾いた埃と紙の匂いが漂っている。
 大学生のレンは、アルバイトとしてその小さな古書店で働いていた。老夫婦が営むその店は常連も少なく、昼間は時間がゆっくりと流れる。

 ある日、奥の在庫棚で手入れされていない箱を整理していたレンは、一冊の古びた文庫本に手を伸ばした。触れた瞬間、ふわりと甘く、懐かしい香りが鼻先をかすめた。

 それは幼い頃に嗅いだことがあるような、けれどはっきりとは思い出せない匂い。
 いちご味のキャンディ、大きな丸い石鹸、野に咲いていた花――混ざり合った香りが、胸の奥にノスタルジーを打ち込んできた。

 レンはその本を手元に置いたまま、帰宅後も何度も読み返すようになった。物語は日記のような形式で、どこか不自然に断片的だったが、なぜか読み進めるほどに匂いが強くなる気がした。

 数日後、奇妙なことが起こる。

 小説の中で描かれていた“古い映画館の匂い”が、ある夜、レンの部屋に漂った。読んでいないときでも、部屋の隅から香るように。窓を閉めていても、外から香りが染み込んでくるようだった。
 レンは思った。
 この香りは、本が原因なのではないか?  そう思う疑問より先に、ページをめくる手を優先する。

 読み進めるほどに、香りはより複雑になっていく。
 “誰かの汗”、“濡れた絨毯”、“病室”、“消毒液”、“燃えかけた髪”――香りが混ざり合い、甘さの奥に腐った何かが顔を覗かせ始めた。

 やがて、本の紙面にわずかにしみが浮かぶようになった。触れるとべたつき、鼻を近づけると、強烈な腐敗臭が立ちのぼった。

 それでも、レンは本を手放せなかった。
 香りは記憶と結びつき、まるでそれを読み解くたびに“誰かの人生”を嗅ぎ取っているような感覚すらあったからだ。

 部屋の空気は次第に変質していった。換気をしても意味がなかった。服にも、布団にも、肌にも、甘く腐れた匂いが染みついていた。心配する友人が訪ねてくるのを拒むようになり、バイトにも行かなくなった。

 ある朝、目を覚まして本を開いてみると、ページが白くなっている。
 どのページも、べったりと匂いのついた紙だけが残されていた。

 そしてレンの部屋には、何かがいた。姿は見えないが、確かに“誰かの匂い”がすぐそばで呼吸していた。
 その香りは、あの本の匂いと同じだった。
 何かが手をつかみ、レンの指を本のページに押し当てる。

 滑る指が文字を浮かび上がらせる。青年が働いていた“古書店”の匂いが強くなった。
 

 数日後、近所の人が異臭に気づき、レンの住んでいた部屋の鍵を管理会社が開けた。
 中に人影はなく、部屋の隅に本が一冊、ぽつんと置かれていた。
 異臭に誰もが顔をしかめる中、それを開いた作業員の一人が、うっとりと目を細める。
「……いい匂いがする」

  

  

〈終〉

 

  

もう一つの舌

 

◆あらすじ
主人公は春の終わり頃から、何を口にしても甘く感じるようになる。それは砂糖のような甘さではなく、ねっとりとした異質な甘さだった。医者に診てもらっても異常は見つからず、主人公は自分の内側から甘さが湧き出ているのだと確信する。次第に、主人公の舌に異変が現れ始める。

 

※! ※以下の内容が含まれます※! ※
ホラー、味覚、グロテスク、舌、じわじわくる恐怖、食欲、依存、短編

 

◆もう一つの舌

 

 何を食べても、甘い――そう感じ始めたのは、春の終わりだった。

 最初はコンビニのおにぎりだった。鮭のはずなのに、ほのかに砂糖のような後味が残る。味覚が疲れてるのかもしれないと、そのときは流した。

 だが、それは日ごとに強くなっていった。

 味噌汁も、漬物も、ブラックコーヒーさえも、すべてが甘い。
 しかも、その甘さは普通の砂糖とは違う。もっと重たく、舌にまとわりつくような……唾液そのものが甘くなったみたいだった。

 医者に相談しても、特に異常は見つからない。味覚障害の一種かもしれないと言われ、ビタミン剤だけを処方された。

 だが、自分ではほぼ確信していた。この甘さは自分の外ではなく、内側から湧き出しているのだと。

 ある夜、我慢しきれなくなって、料理を作った。自分の持てる技術をすべて注ぎ込んだ料理だ。
 テーブルにずらりと並んぶ皿。赤いシチューに焼けた肉、溶けるような果物。どれを食べても、甘くて濃密だった。
 スプーンを手に取り、一口運ぶ――その瞬間、喉が焼けるような甘さが広がる。まるで全身が砂糖漬けになったようだった。

 手は止まらず、料理は口に運ばれる。そしていつの間にか朝になっていた。皿が空になった時、口に手を当てる。
 その手さえ食べてしまうかもしれない。恐怖もなくぼんやりとそう思った。

 それからというもの、舌が変わり始めた。

 鏡を見ると、舌の裏側に赤黒い線が浮かび、ヒダが増えている。
 食事をとるたびに、口の中が変に熱を帯びた。それでも食べ続けてしまう。あの甘さに支配されていた。

 気づけば、冷蔵庫の中は常に空っぽになっていた。買い足しても買い足しても、いつの間にかなくなっている。
 自分がいつ食べたのかも曖昧だった。

 ある日、舌を引っ張ってみた。根元の奥から、もう一本、別の舌が生えかけているのを感じた。
 その“第二の舌”は、口の奥で動いていた。満足できていないのだろう。身震いする体と、広がる甘味。
 恐怖さえもその舌は舐めとるようだった。

 ふと、人混みの中を歩いていると、唾液があふれた。目に止まるのは行き交う人の姿。
 舌を思いっきり噛んで、理性を呼び起こそうとする。

 傷ついた舌から血が滲む。……それさえも甘いと気づいた時、自分が手遅れになっていることを知った。

 ――それからというもの、ひとりでいるときは必ずマスクをするようになった。
 甘い香りに駆られて、いつ何を口にしてしまうのか分からなかったからだ。息苦しさを感じても、外せない。
 それなのに、マスクの内側からはかすかな甘い匂いが漏れている。まるで呼吸をするたびに、体が求めているものを刷り込もうとしているようだった。

 夜が来るたび、台所のわずかな光の下で、冷蔵庫の扉を開いたり閉じたりしてしまう。
 いつの間にか廊下にまで漂う、外からの重たい甘さ。まるで誰かがこっそり甘味料を撒き散らしているのではないかと思うほどだった。
 けれど、そんな気配を感じられるのは自分だけ。誰も何も言わない。それどころか、人との会話は減っていき、いつしか声を発するのも億劫になっていく。

 ある夕方、ふと玄関のドアを開けると、空気がぬるく感じられた。
 どこからか漂う甘いにおい。それは花の香りかもしれないし、どこかの家で焼いているお菓子の匂いかもしれない。
 鼻を覆うようにマスクを押さえる。すると口の中に唾液が滲む。その瞬間、再び頭の奥がじんと熱を帯びる。
 ――何かが自分を誘っているような気がした。

 遠くから人々の笑い声が聞こえる。会話が甘く震えて伝わってくる。
 思わず舌先で唇を湿らせそうになったところで、奥歯を噛んで踏みとどまる。
 どうにか理性を取り戻そうとするものの、自分が何を我慢しているのか、もうはっきりとは分からない。
 ただ、「この衝動に任せてはいけない」という確信だけが離れなかった。

 ――結局、ドアを閉めることもできず、じっと外を見つめていた。
 夕闇が滲む街の景色は、まるで濃厚なシロップに浸されているようで、肌が粟立つほど甘ったるい。
 その甘味は誰にも感じ取れないのだろう。けれど自分には、抗いがたく広がっていく。

 この全身に感じる甘味が、新たな自分の始まりであり終わりであるとさえ思えた。

 口の内側で、もう一本の舌がかすかに動く。
 だが、そこで足を踏み出すことはなかった。暗闇に溶け込むように立ち尽くしながら、口元にだけ意識が集まる。
 聞こえてくるのは、自分の唾液を飲みこむ音――そして、それを甘いと感じてしまう感覚。
 それ以上に何もできないまま、夜の闇だけが静かに重さを増していく。

 ……そうして、気づけばいつもと同じ朝がやってくるのだ。
 周囲は何も変わっていない。変わっていくのは自分だけ。
 そして今日も、マスクの中に息をこぼしながら、そっと口を閉じた。

 

〈終〉

 

生温かい壁

 

◆あらすじ

新築マンションの角部屋に引っ越してきた主人公は、静かで快適な生活を送っていた。しかし、ある日からベッド横の壁に違和感を覚える。壁に触れると、まるで生き物のような温かさを感じ、日を追うごとに湿り気を帯びていく。夜になると壁の温度は上がり、撫でると奥から撫で返されるような感覚に襲われる。壁の異変に戸惑いながらも、主人公は次第にその壁に魅了されていく。

 

※! ※以下の内容が含まれます※! ※
ホラー、壁、バッドエンド、怪奇現象、短編

 

◆生温かい壁

 

 引っ越してきたばかりのマンションは、新築できれいだった。角部屋で日当たりもよく、隣室の音も聞こえない静かな空間。何ひとつ不満はなかった――最初のうちは。

 ある日、ベッドの横の壁に違和感を覚えた。
 ふと手をついたときに感じた、少しの温かみ。無機質なはずの壁が、まるで……。最初は気のせいだと思い、軽く叩いて確認する。音は鈍い。しかし、叩いた感触がどこかおかしい。

 それ以来、その壁が妙に気になるようになった。
 無意識のうちに手が伸び、撫でてしまう。指先でなぞると肌ざわりがよく、その温かさは生き物に触れているような錯覚を起こした。

 次第に、壁の感触が変わっていくのが分かった。
 日を追うごとに表面が少しだけ湿り気を帯び、夜になると温度が上がるように感じる。
 撫でると、壁の奥から撫で返されるような感覚がした。

 ある夜、壁に背を向けて寝ていると、夢の中で誰かに後ろから肩をつかまれた。ハッと目を覚まして肩を見ると、誰かの指の跡が赤く残っている。

 不安になって管理会社に連絡し、壁の中を確認してもらうことになった。作業員がやってきて壁に穴を開ける。すると中には――何もなかった。ただの断熱材と空間。がっかりしたような、ホッとするような気持になる。
 だがその夜、壁の感触は明らかに変わっていた。
 穴を開けた周辺だけが、ただの壁のように戻っていた。そしてその戻った部分が、日ごとに広がっていく。
 もしかしたら、これで事は済んだのかもしれない。そう思った矢先に、異変が起きる。

 壁が触れようとしてくるようになった。
 寝ていると背中に温かいものが触れる。部屋の中にいると、指先がいつの間に壁を撫でている。手を離そうと思った時には、壁が手の平に吸い付いたような気がして気味が悪くなった。

 ただしくは、壁が動くはずがないのに、自分が引き寄せられているとしか思えない瞬間がある――といった方がいいかもしれない。どちらにしろ薄気味悪さを抱えつつも、壁に触れない日はなかった。

 

 そしてある夜、壁に触れた瞬間、指先が――沈んだ。

 皮膚が吸い込まれ、第二関節までめり込み、引き抜こうとしても抜けない。
 壁の奥で、何かが手を握り返している感覚。
 ぐにゃりとした何か冷たく湿ったものが、手を“迎え入れている”。

 叫び声を上げたが、誰も助けに来ない。
 気づけば、壁の感触は家中に広がっていた。床も、天井も、ドアも――すべてが、柔らかくて、温かい。
 家中、全体が歪んで囲い込んでくる。

 

 数日後、部屋には誰の姿もないことが確認された。その間もなく借り手が募集される。

 新しく入居した住人が言った。
 「この部屋、壁がちょっと……柔らかいんですよね。なんか、こう……あたたかくて、気持ちよくて……つい触っちゃうんです」

 

 

〈終〉