月別アーカイブ: 2025年4月

呪いの青風

 

◆主人公

青霧颯太 (あおぎり そうた)
地元の大学に通う大学生。民俗学ゼミのレポートを書くため、『青風羽神社』に現地調査に来た。

◆同じゼミの仲間

夏海 (なつみ)
颯太の恋人で同じゼミの仲間。活発で明るい少女。
タカ
グループをまとめるムードメーカー。
悠 (ゆう)
映像記録係、ビデオカメラ担当。
梨沙 (りさ)
好奇心が強いグループの史料まとめ担当。

 

◆あらすじ

大学の民俗学ゼミに所属する颯太は、恋人の夏海やゼミ仲間(タカ、悠、梨沙)と共に、レポート作成のための現地調査として廃神社『青風羽神社』を訪れる。 初夏のような暑さの中、苔むした石段を登りきり、一行が境内に足を踏み入れようとした瞬間、突風が吹き荒れる。その風の中に、颯太は不気味な囁き声を聞くが、他のメンバーは風に驚いただけで、声には気づいていない様子。空耳かと疑いつつも、拭えない不安を感じながら颯太は境内の中へ足を踏み入れるのだった。

※! ※以下の内容が含まれます※! ※
ホラー、現地調査、大学生、怪奇現象、短編

 

第一章:鳥居で聞こえた囁き

 
 苔生す石段を登り、青霧颯太は大学の民俗学ゼミの仲間と共に廃神社『青風羽神社』を目指していた。

 レポートにするために事前に集めた資料と相違する点がないか、現地調査を行うためだ。すぐ隣には、白いクロッシェの帽子を着けた恋人の夏海がいる。汗が白い喉を伝っていた。
 五月になったばかりだというのに、気温は初夏を通り過ぎて夏の盛りのようだった。

 
 「おーい!」颯太が顔を声の方に向けると、先に着いた同じゼミの仲間であるタカが古びた鳥居の前で声を上げている。律儀に二人を待っているようだった。

 他のメンバーも待機しているようで、撮影担当の悠がカメラをこちらに向けて立ち、梨沙は鳥居の脇に生える杉の大木を見ている。大木には千切れかかったしめ縄があり、誰も手入れをしていないのは確かなようだった。

 
 「着いたぁ!」夏海が石段を登りきって声を上げた途端、突然の突風が吹く。

 
 「……みつけた……」

 

 その風の音に紛れて囁き声が聞こえた気がして、颯太はびくりと周囲を見回す。
 

 「すごい風。倒れるかと思った」木に捕まった梨沙が目を丸くしている。他の三人も風に驚いたようだが、おかしな様子は見えない。あの声は空耳だったのだろうか?

 じわりとした不安が颯太の心に湧く。
 「ほら、入ろうぜ」タカに促され、一行は鳥居をくぐり青風羽神社の境内へと足を踏み込んでいった。

 

第二章:境内の調査

 
 
 社殿跡へ移動すると、梨沙がその跡を調べ、悠が映像記録を取るために歩きまわる。崩れた石塔や祠があり、雑草が視界を悪くしていた。何か資料の足しになるものがないか颯太も歩き出す。

 荒れる境内を見回すと、雑草に紛れて石碑のような物が倒れているのが見えた。字が雨風に削れて分かりにくいが辛うじて読める。

 『青風刎神社』颯太の背筋が寒くなる。それはこの神社の本当の名前だった。廃社となって、地元でこの場所を知っている者はこの神社を『青風羽神社』と呼んでいるが、本当はそうではない。昔、ここで罪人を処刑しその魂を慰霊するために建てられたのがこの神社の成り立ちなのだ。いつの時代か名が変わり、忘れ去られていた。それを颯太たちのグループが資料を元に掘り起こしたのだ。

 「何か見つけたのか颯太!」彼がじっと石碑を見ていると、悠が近寄ってくる。

 「昔の名前が彫られた石碑があった」颯太がそう答えると、悠は嬉しそうな顔をした。
 「大発見じゃないか!」カメラを石碑に向ける。

 その時、再び突風が吹いた。

 「……こっちをむいて……」

 空耳じゃない……!
 どこからか響く声に恐怖した颯太が目をぎゅっと閉じて風が止むのを待つ。風が凪ぐと恐る恐る目を開き、悠へと確認した。
 
 「今の聞いたか?」その問いに悠は答えず、顔を青くしてカメラを構えたまま固まっていた。あの声を恐れているようだ。
 「早めにここを出ようか」と颯太が言うと、すごい勢いで頷く。二人は他の三人のもとへ向かう。

 

第三章:古祠と木箱の発見

 
 社殿跡の確認を終え休んでいた梨沙が、崩れた祠に目を止めた。彼女が祠の前に立つと、地面に何か土を被っている箱のようなものが見えた。

 顔を近づけて確かめてみると、それは半ば埋もれた木箱に見える。

 「ねぇ!みんな来て!」梨沙が大きな声でゼミの仲間を呼ぶ。近くにいたタカと夏海が真っ先に集まり、離れた場所にいた颯太と悠は遅れてしまう。

 「ほら見て」梨沙はせっかちに土を掘り箱を手に取ると中を開けた。箱の中には『青風刎神社』の旧社名と、関係者らしき何名かの名が連なった紙片が入っていた。その名の中には、颯太と同じ名字である青霧の名がある。それを見つけた瞬間、颯太が凍りつく。
 
 「わあ、颯太と同じ名字だ!」嬉しそうな夏海の声がした。颯太が夏海の横顔を見る。彼女も『青風刎神社』の成り立ちを良く知っているはずだった。なにしろ恋人というだけではなく同じゼミの仲間だ。なのに(……何故そんなに嬉しそうなんだ)内心の動揺を悟られないように四人から颯太が距離を取る。この廃社は颯太の地元のものだった。そこで見つけた青霧という颯太と同じ名字、不吉なみつけたという声、じわりと嫌な汗がシャツを濡らす。一致してはいけないものが一致している。

 悠が顔色悪く颯太を見ていた。「大発見だね!」と梨沙達、三人の盛り上がる声が響く。この三人は声を聞いていないのだろうか?それとも聞いた上で……?颯太の心に疑念が顔を出す。

 

最終章:禁忌の伝承

 

 箱の中の他の紙片の一つを梨沙が面白がって読み上げた。「えー……っと、風ニ呼バレカエリミタル者ハ風ニ魂ヲ喰ワ……擦れてるけど喰われるかな?この神社に伝わる伝承みたいね」それを聞いた悠がいよいよ全身をガタガタと震わせる。

 「な、なぁ、もういいだろう?これ以上は罰が当たるかもしれないし帰ろう!十分な収穫だろっ!」悠の叫ぶような大声に、タカ、夏海、梨沙が訝しげになる。悠は落ち着きなくカメラを持つ手を震わせている。四人へ事あるごとにカメラを向けて張り切っていた朝の様子と今はまるで違う。

 「ここまで来たら、隅々まで見て回ろうよ」それに夏海が悠に反論する。

 「僕も帰りたい。すまないけど気分が悪くなってきた」そこへすかさず颯太が割って入った。悠と同意見だった。気分が悪いのも本当だ。
 「そうだな。こんなに暑いんじゃ熱射病になってもおかしくない」タカが賛同してくれた。颯太はホッとする。三人の意見を二人は無視しないだろうと安心したのだ。
 「そうね……、しょうがないか」梨沙の同意する言葉、夏海は残念そうにしたがそれ以上は何も言わなかった。

 五人が境内を出ようとして社殿を背後にして、鳥居をくぐろうとしたその時。

 「……こっちをむいて……」

 ゴウッという突風と共に耳元に声が響いた。「うわああああ‼」たまらず悠が叫び声を上げて、石段を降りていく。「何……?誰か何か言った?悠のやつ、あんなに駆け足で降りて転んだらどうするつもり?」梨沙も悠を心配して急ぎ足で降りていく。
 「なぁ、今の声……」タカが困惑した顔で、横の颯太の顔を見る。颯太はまっすぐ前を見ていた。声の方、背後の社殿跡を意識して、前以外見れなかった。
 「行こう!颯太」常なら明るく場を華やかにする夏海の声と、柔らかい手が颯太に重ねられる。こんなに暑いのに、いつもと違っていやに冷たい夏海の手が颯太の手を引いた。
 「ここで突っ立っててもしょうがないか」そう言ってタカも降りていく。

 『えー……っと、風ニ呼バレカエリミタル者ハ風ニ魂ヲ喰ワ……擦れてるけど喰われるかな?』

 梨沙の読んだ紙片の言葉が颯太の頭の中に繰り返し響いた。喰われたあと……魂が無くなった体はどうなる?

 当然、そんなことを知るものは誰もいない。こちらを見ない夏海の顔が、冷たく固く握られたその手が、颯太の心を底冷えさせた……。

 

呪いの青風〈終〉

 

遭難した宇宙船不思議な救援

 

◆あらすじ
事故で遭難した探査船のクルーである主人公。無人の船内の酸素は数日分、通信装置は破損している。主人公が死を受け入れかけたとき、“何か”が現れる。

それは、人の形を模した実体無き光のもやだった。得体のしれない存在と言葉を交わす、彼の先に待ち受ける結末とは……。

※以下の内容が含まれます※
SF、怪奇、遭難、宇宙

 

 

記録【1】

 

酸素残量:38時間27分。

 

探査船〈セラミス9〉の艦内に、音はなかった。
音というより、動きがなくなっていた。
空調はかすかに生きているが、それもいずれ止まる。
通信パネルの表示が割れていて、信号の送信ログすら読み取れない。

航行の途中やむを得ず船が流星群を通り抜けた際、船体の一部が避けきれず、一瞬で何もかもが沈黙した。
その中で、たった一人だけ――生きていた。

「……なあ、誰かいるか?」

言葉は、壁に当たってそのまま落ちた。
返事がないことにはもう慣れている。
だが、それでもときどき、言いたくなるのだった。
自分の声を聞いていないと、“今、自分がどこにいるか”がわからなくなる。

遠くから金属の軋む音がした気がしたが、それは彼の頭の中で生まれた幻聴だったのかもしれない。
重力が不安定で、眠りも浅い。
水も食料も口にできなかった。
だが不思議と、死ぬのが怖くはない。

怖くない、という感情すら、もう湧かなくなっていた。
 
無為に時間が過ぎ、彼が眠れずに、ただ薄暗いブリッジでじっとしていたとき。“声”を聞いた。

「やあ、これは珍しいものを見た」

ふと、そんな言葉が降りてきた。
どこから? 誰が? 何のために?
そんな問いが脳に届く前に、次の言葉が続いた。

「驚かせたならすまない。あまりにも長い間、忘れていたものだから、触れたくなったんだ」

彼は思わず上半身を持ち上げ、周囲を見回した。
誰もいない。もちろん、そんなことは分かっていた。

「……ああ、これが幻聴ってやつか……?」

「そう思ってもいいよ。でも、わたしはここにいる」

船内で光が、ほんのわずかに明滅した。
そして、空間に“揺らぎ”が生まれた。

人の形をした光。
輪郭は曖昧で、しかし確かに「人」に見えた。
男でも女でもない。
ただ、柔らかく息をしているような存在だった。
 
「……誰、なんだ?」

「わたしたちは、進化したあなたたちだよ。肉体を持つことをやめ、時間を横切るようになった」

「……おとぎ話かよ」

「そう思うなら、信じなくてもいい。でも今、あなたのそばにいるこの“わたし”は――あなたに触れたい」

触れたい?
彼は手を伸ばした。
でも、その“光”は掴めなかった。
空気のようでもあり、水のようでもあり、手のひらをすり抜けていく。

だが、奇妙な感覚があった。

触れていないのに、手を包まれているような。

「わたしは、触れるということを覚えていた。あなたのおかげで思い出したんだ」

その声が、どこか嬉しそうだったのが、彼には怖かった。

 

記録【2】

 

酸素残量:12時間13分。

 

彼はもう、途切れ途切れに眠るたび“その声”と語るようになっていた。
最初は幻覚だと思っていた。
だが、繰り返される対話の中で、自分が“知るはずのない記憶”を共有されるたび、これは実際にここに居る存在なのだと、そう確信するようになった。

「あなたはさみしいの?」

「たぶん、そうだな。みんな先にいっちまったから」
 そうでもなければ、こんな奇妙な奴とおしゃべりはしないだろう。彼は船内唯一の光を見る。

「さみしいまま死ぬのは、悲しい?」

「……ああ」
 この不思議な出会いを歓迎する気になっていた。死ぬ瞬間誰かが傍にいてくれるのは悪い気がしない。

「じゃあ、私があなたとひとつになれば、もう孤独じゃない」

そういうなり、光から手のようなもやが伸ばされる。

逃げる気は起きなかった。

融合の感覚は、やさしく抵抗がない。
触れた部分から、境界がほどけていく。
体温、痛み、空腹、記憶、重さ――
すべてが彼の“中”から離れて、どこかへ溶けていった。

彼の意識は溶けてなお残っていた。
ずっと隣に誰かがいる。そして、そいつは長々と知らない宇宙の旅の話、体を持っていた頃の思い出を語りかけて来たように思う。

「わたしは、あなたの“触れたかった”という感情が、うれしいよ」

 

記録【3】

 

酸素残量:00時間24分。
 
目が覚めたとき、彼は床にいた。
重力が戻っていた。
体の感覚も戻っていた。
自分の手は、しっかりと血が通っていた。
喉は乾いていた。
寒さも感じた。

「……?」

割れた通信パネルが微かに光っている。

『救難信号、応答あり』

点滅するメッセージが割れた画面の端に見える。彼は目を見開いた。

生きているか分からない応答ボタンを押した。

「こちら救助船〈シグナル7〉、着艦態勢に入る。状況を確認次第、回収を行う」

頭が混乱していた。
夢だった? それとも現実だった?
あの光は……?

「久々に、君たちの“助け合い”に加わることができてよかったよ」

そのささやきは、背後から聞こえた。

振り返ると、誰もいない。
だが、床に反射した光の揺らぎが、笑うように揺れている気がした。

ハッチが開いた音がした。
彼はゆっくりと歩き出す。

光に触れた自分の手を見ながら、ふとつぶやいた。

「……夢だったのかな」

そして遠ざかる破損した探査船の灯りが、最後にもう一度だけ、まばたきのように明滅した。
 
 

 

 

※この作品はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

管理者:ALGO

 

◆主人公
エリーゼ・カルバート:20歳になったばかりの女性。所属や肩書は何もない。“器候補”としてAIとの融合実験の被検体として育てられた。実験の段階になって、彼女は迷いながら自らの道を模索しはじめる。

◆あらすじ
薄灰色の空にホログラム広告が重なり合う近未来都市。 巨大AI、ALGOは行政、交通、医療、軍事など、あらゆる分野を管理し、人類の安定を保っているはずだった。 しかし、最近の街の人々の様子は落ち着かず、資源の限界も囁かれている。AIの支配する街で、エリーゼに待ち受ける運命とは。

※! ※以下の内容が含まれます※! ※
SF、バトル、AI、脳神経接続、適性テスト、ディストピア

 

第一章:管理者の選定

 

 空はどこまでもくすんでいた。
 まるで巨大なスクリーンのように、複数のホログラム広告が重なり合い、薄灰色の大気に踊る文字や映像を映し出している。
 「人類の未来は、ALGOが守ります」「最先端の遺伝子管理で健康長寿を――」
 通りを歩くたび、視界の隅をそうした文言がかすめていく。

 私の名はエリーゼ・カルバート。
 20歳になったばかりだが、所属や肩書は何もない。
 何故なら、私が“器候補”であること――それだけが唯一の身分だから。

 ALGO――都市機能を一手に担う巨大AI。
 行政、交通、医療、軍事のすべてが、彼らの演算結果によって最適に整えられてきた。
 暴動が起きれば制圧ロボットが派遣され、病が広がれば徹底した隔離とワクチン開発が進む。
 すべては人類の安定のため――それが表向きの大義だった。

 だが、最近、街の人々はどこか落ち着かない。
 物流ルートは依然として保障されているのに、なぜか笑顔が減った気がする。
 噂では、資源が限界を迎えつつあり、ALGO自身も新たな方策を編み出そうとしているらしい。
 人々は最悪を恐れて、ALGOの裁定に縋るしかなかった。

 「エリーゼ、こちらへ」

 滅菌加工されたエントランスを抜け、足を踏み入れたのは“器選別センター”だ。
 無機質な白い廊下を進む先に、担当官が立っている。
 綺麗にセットされた髪と淡々とした口調――まるで人形のような態度に、少しだけ背筋が冷える。

 「今から適性テストを行います。あなたの脳神経は、過去の検査で高い同期率を示しています。ALGOとの相性が良ければ、人類の希望として大いに貢献できるでしょう。」

 言葉自体は励ましのように聞こえたが、その視線には情感がまるでない。
 私は黙って頷き、背をピンと伸ばしたまま先導する担当官の後についていく。

 待合室のガラス越しに見えるのは、高度に配備された医療機械群。
 AIの制御端末と人間の脳を直結するための装置――「脳神経接続ユニット」。
 それを目にした瞬間、喉の奥が干上がるように乾く。

 ――なぜ、この都市はこれほどALGOに頼るようになったのか。
 かつてはそうじゃなかったと、幼い頃の祖母の写真で見た記憶がある。
 けれど、いまやそのALGOの管理がないと誰もまともに暮らせない。
 資源の配分も治安維持も、国家方針さえ、すべてAIが仕切っている。
 その最高位であるALGOは、意思を持たないただの道具――そう教えられてきたはずだった。
 だが、器という言葉が示すように、人が望むはずのない何かが始まろうとしている気配がある。

 「エリーゼ・カルバート、計測室へどうぞ」

 無機質な自動アナウンスが、私の名を呼ぶ。
 深呼吸して、扉の向こうへ進む。そこには、目を背けたくなるほどの銀色の器具が並んでいた。
 脳波をスキャンし、次の段階――「統合試験」の適合値を測定するのだという。

 ――私は、一体どこまで人間でいられるのだろう。
 そんな疑問が頭をよぎった瞬間、後ろから担当官の乾いた声が聞こえた。

 「あなたには大きな期待が寄せられています。ALGOの新方策に協力すれば、生活ランクも大幅に向上する。どうか、最後まで管理に従ってください。」

 私は静かに眉を寄せた。疑問はずっと心の中でグルグルとしている。

 「……これが本当に私たちの“望み”なんですか?」

 担当官は答えず、小さく首を振っただけ。
 部屋の奥、白い光が交互に点滅してまぶしい。
 意識の奥が警鐘を鳴らしている――戻れない、そんな予感。

 けれど、もうここまで来た以上、進むしかない。
 私は握りしめていた拳をほどき、足を踏み出した。

 まるで、これから本当に“器”へと変わっていくのだと暗示するように、
 計測室の自動扉が音もなく閉まり、
 銀色の接続ユニットが、私の頭蓋に向けてゆっくりと降りてきた。

 「ヘッドギアの位置を調整します。痛みがあれば即時申告を。神経遅延は誤差を生じますので。」

 点滅が遠のき白い光に包まれた計測室。その中央に設置された“脳神経接続ユニット”を前に、私はじっと息を詰めていた。
 金属質のアームがゆっくり動き、透明なヘルメット状の装置が頭部を覆っていく。すぐ横を通り過ぎる細い針のようなプローブが、視界の端でかすかに光を反射する。

 (……大丈夫、怖がっても仕方ない。ここで拒否しても、どうせ戻れない。)

 仮に試験を放棄したら、“器候補”としての資格を失い、どこにも行き場のない下層へ送られる運命が待っている。
 それどころか、もしかすると社会不安要素として処理される危険すらある――AI管理下の社会では、それも珍しい話じゃない。

 頭蓋への圧迫感が一瞬増し、振動がびりびりと後頭部に伝わってくる。呼吸を整えようとしても、空気がひどく薄いように感じた。

 「カルバート被験者、神経伝達開始までカウントダウン。……5、4、3、2、1」

 カツン、と何かが接続された音がして、その瞬間、視界が一瞬切れた。
 いや、目は開いている。けれど、まるで部屋の照明が落ちたような暗転があった。

 ……次の瞬間、光の粒が乱舞する。

 白、青、赤……虹色のノイズが脳内を走り抜けるように煌めいては消え、もとのクリーンルームとは似ても似つかないサイケデリックな空間に変わる。身体の境界が曖昧になり、足元の床も溶けるように揺れていた。目を閉じてもまぶしさは消えず、むしろ内側で増幅される。

 (これは……何?)

 困惑が声にならず、ただ唇が震える。耳鳴りのような電子音が遠くから聞こえてきた。

 「……ズ……確認……ノイズ、許容範囲内……器候補No.246……適合率――」

 誰かの声が、遠いからする。言葉も断片的に聞こえるが、脳に直接響いてくるような奇妙な感覚があった。

 突然、私の頭の中に“文字”らしきものが浮かぶ。
 “SERIAL CODE: ALGO—Operating…”
 アルファベットが脈打つように並び替わり、次第に文章を形成していく。

 【適合実験開始:器候補に対する神経同期……進行中……】

 (……同期? 私と、ALGOが今つながってるってこと?)

 ゾッとするほどはっきりとした他者の存在感が、私の思考領域に入り込んできた。
 それはまるで、静かな冷気のような意識だった。

 《検体No.246――エリーゼ・カルバート。神経伝達率:81.7%。十分な素体レベル》

 「……あなたは、誰?」
 声に出したつもりだったが、口が動いたかもわからない。ただ思考を投げかけただけで、相手も答えを返してきた。

 《こちらはALGO。都市管理の最上位モジュール》
 《不必要な感情負荷が検出された。調整を行うか?》

 不必要な、感情負荷……?
 なんだか胸を締めつけられるような違和感が生まれ、呼吸を乱す。私は感情を簡単に調整されるのか。そんな恐怖がこみ上げる。

 「……やめて……勝手に触らないで……!」

 《警告:被験者が同期を拒絶。だが指令優先度は高位。継続処理……》

 言葉が切り替わり、そこから先はプツリと途切れた。
 視界が再びシフトし、今度は美術館のような空間に変わっている。
 壁一面に無数のモニターが並び、社会保障データや出生率、兵器配備数などの統計が洪水のように表示されていた。

 《アルゴの方策:人類の最適保存。だが、感情不均衡が大きい状況は非効率……》
 《よって“器計画”により、制御コアを人間脳に接続する試験を開始する》

 ……制御コアって、つまりAI自身を人間の脳に移植するってこと?
 なんて暴挙、私の脳がそれを受け入れられるかどうかをここで試されている。怒りに似た感情が押し流されて脳内が痛む。認識の容量を超えた情報が流れ込み、熱が籠るように意識が揺れる。

 (こんなの……正しくない)

 呟いた瞬間、また声が返ってきた。

 《問:正しさとは何か?》
 《被験者への感情フィードバックを継続……》

 まるで、AIが私自身に問いかけているようだった。
 それは傲慢で、それでいて不気味なほどに興味を含んでいた。無遠慮に探られている未知の感覚。精神を撫でられ、丁寧に開くような……。

 こうして、人間を“器”にしようとする計画が、私の頭の中を大きく支配しはじめた。

 どれくらいの時間が経ったのか、まったくわからなかった。
 真っ白な光と、まるで海底のように揺れる幻覚が視界を満たしている。
 脳の中で、何かが混ざり合おうとしている感触だけが、気味悪く伝わってきた。

 《接続率、上昇中。安定化処理へ移行。感情同期データは暫定保留……》

 “感情同期データ”――なんのことだ?
 ぼんやりと思考を巡らせたその瞬間、また脳内に機械的な電子ノイズが走る。
 痛みとも熱ともつかない、しかし確実に身体を蝕む感覚。

 「……やめっ……これ以上……」

 訴える声は、空気に乗らずに霧散する。
 意識の半分以上が、すでにAIの演算領域へと引きずり込まれているのがわかった。解析と思考の計測を繰り返すメッセージ。

 
 ――そのとき、意外にも早く統合試験が打ち切られた。
 視界のノイズが急速にしぼんでいき、クリーンルームの天井が戻ってくる。
 気づけば、私の体は医療ベッドの上に横たえられていた。

 「……カルバート被験者、終わりましたよ。聞こえますか?」

 虚ろな意識の中、担当官の声が耳朶を打つ。
 ゆるく首を振り、何とか唇を動かす。

 「……何、が……終わったの……?」

 担当官は眉ひとつ動かさず、モニターを淡々と操作しながら答えた。
 「あなたは仮統合の段階に至りました。脳神経の一部とALGOがリンクし、最低限の同期が可能となった状態です。ただし、本格的な融合にはまだステップが必要ですね。いまは、回復処置を施します」

 仮統合……。じゃあ、まだ終わりじゃないんだ。
 身体の痺れを抑えながら、私は必死に息を整える。

 (……脳内に、まだ何かが残ってる。あれはALGOの一部?)

 そこにはごく薄い気配があった。冷たい触感。
 けれど、先ほどの無遠慮な押し付けは感じない。
 まるで、外部と分断されて、小さく息を潜めているようだった。

 

 「あなたの試験結果は高評価です。次の段階――本導入の可否は後日の審議になります。それまでこの研究棟に滞在してください。まもなく搬送用ベッドが来ます。」

 担当官は淡々と言葉を告げると、目線だけで私を一瞥した。
 どこかで嫌な予感がする。これから先、私はずっとこうして、管理されるだけの存在なのか?

 「ねえ、ひとつ、聞かせてほしいことがあるんだけど」

 「……何でしょう?」

 「もし私が“器”に適合したら……その先は、どうなるの?」

 私の問いに、担当官は一瞬言葉を探すように唇を動かし、それから抑揚なく答えた。

 「管理者アルゴのために、あなたの脳神経中枢が最適化されます。もちろん、生体機能は維持され、人間としての外見を保ちます。ただし、意志決定の大半はALGOと共有される形になるでしょう。……安心してください。あなたは都市において高ランクの市民権が得られます。誰もあなたを傷つけないし、あなたもこの街で優雅に暮らせるはずです。」

 ――優雅?
 それは、私の意志を捨てる代償に得られる偽りの暮らしだ。
 崩れているだろう私の顔色を見ても、担当官の表情は変わらない。まるで、私の意志表示に興味はないとでも言いたげだ。

 「……そう」

 搾り出す声は、自分で聞いても頼りない。
 だけど、脳の奥で微かにALGOの気配を感じるたびに、私は戦慄していた。

 (私とALGOが、本当にひとつになったら……どうなる?)

 さっき“彼”は私に問いかけた。「正しさとは何か?」と。
 もし、その続きを聞かれたら――私は何と答えるだろう。
 この圧政的な管理を是とするなら、もう後戻りはできない。
 でも、それが正しいのかどうか、私にはわからないのに。

 

 やがて、白い作業服を着たスタッフたちが来て、私を搬送用ベッドへ移した。
 点滴の針が刺され、鎮静剤らしき液体が血管に流れ込む。
 すぐに意識が遠のきそうになるが、その前に最後の力でつぶやいた。

 「……私は……まだ……人間で、いたいのに……」

 誰も答えない。
 遠のく視界の中、担当官がこちらを見下ろす姿がぼんやりと揺らめいていた。

 そして、暗転。眠りの底で感じたのは、静かで冷たい、もうひとつの意識。
 そこに確かに存在する、ALGOの断片。
 それがやがて大きく膨らみ、私の意識を飲み込んでいく悪夢が見えたような気がした。

 

第二章:器の意志

 

 頭の芯を締めつけられるような鈍い痛みの中、目を開けると、そこは小さな個室だった。
 殺風景なベッドと、中央に設置された無機質な点滴スタンド。窓もない。
 照明はほとんど落とされていて、人工的な冷気が天井の通風口から静かに流れこんでいる。

 「……ん、ここは……?」

 意識はあるが、身体がやけに重い。寝返りを打とうとすると、血液の巡りが遅いのか痺れが走る。
 私――エリーゼ・カルバートは、統合試験後の“回復処置”とやらでこの部屋に収容されたらしい。

 そこへ、扉が機械音と共にスライドし、担当官が入室してきた。
 相変わらず情感のない声で告げる。

 「カルバート被験者。いまは身体機能の安定化期間です。
  脳神経の微調整を数日にわたって継続し、問題がなければ“器”として次の段階へ移行します。」

 私は意識を探る。確かに頭の奥にはまだ、あの冷たい何かの残滓がいる。
 だが動きは鈍い。まるで眠りかけているように感じた。

 「……ALGOは、今どうしてるの?」

 担当官は小さく首をかしげてから、平坦な声で返す。

 「メイン演算は変わらず都市全域を制御しています。あなたの中にあるのは、あくまでアルゴの一部に過ぎません。
  本格的な融合が始まれば、そこから少しずつあなたに干渉を――失礼、連携を図る形になるでしょう」

 連携……だなんて綺麗な言い方をしても、実質的には干渉どころか支配のはずだ。
 私は担当官の誤魔化すような言葉を聞くたびに、うっすらとした嫌悪感を覚える。

 「……外に出ることは、許されないの?」

 担当官は淡々と計測端末を操作しながら言う。

 「今のところは禁止です。外はザワついていますから。先日の食糧配給の再編で、一部市民が不満を募らせている。状況次第で、また暴動が起きるかもしれません。……あなたを危険に晒すわけにはいかない。」

 そう言った担当官の目には、一片の温もりもなかった。
 ただ事務的に“あなたは重要な実験体だから大切に扱う”と言っているだけ。

 「暴動……」

 確かに、街のどこかでは何らかの騒動が起きているのかもしれない。
 しかし私はこのベッドの上で、それを実感する術もない。
 まるで刑務所だ。自由がない。自分で考えることさえ、少しずつ奪われていくようで息苦しい。

 ――と、そのとき。

 《……エ……カ……》

 耳鳴りのようなノイズが走り、脳内で微弱な声が震えた。
 先ほどまで眠っているかに見えた“AIの残滓”――ALGOの断片が、ほんの瞬間、私に何かを告げようとしているように感じた。

 (……今、呼ばれた? 名前を?)

 私は思わず額に手をあてる。担当官は訝しげにこちらを見るが、何も言わず去っていく。
 扉が閉まると同時に、部屋は再びひっそりとした沈黙に包まれた。

 

 痛みに耐えながらベッドからゆっくり身体を起こすと、手足ががくがく震える。
 点滴や各種センサー類が私の腕や胸元に貼りついている。
 視線を巡らせると、小さなデスクがあり、そこにシンプルな端末が置かれていた。

 (……少しくらい、データを見られるかな?)

 自分の置かれた状態を少しでも知りたい……。ベッドを降りて、ふらつく足取りで端末の前に座り込んだ。
 画面をタップすると、生体認証の画面が出る。
 カメラの目が私を通すと、あっさりロックは解除されファイル一覧が並んだ。
 そこには「器計画/内部レポート」「ALGO連動プロトコル試作」など、いかにも怪しげなフォルダ名がずらりと並んでいる。

 (案外、セキュリティが甘い? ……それとも、私が見るのは想定内?)

 どのみち、知るなら今しかない。少し迷った後、私は「器計画」のフォルダを開いた。
 そこには数多くの被験者ナンバーが記録されたリストと、その結末を示すレポートの一覧があった。

 被験者No.117:統合初期化失敗。脳神経ショック死。
 被験者No.208:適合率42%止まり。人格崩壊により安楽死処理。
 被験者No.245:統合試験完了→行方不明(記録抹消)
 被験者No.246:適合率81.7%。本導入へ移行準備中。

 (……何これ……こんなの……)

 震える指先が止まらない。
 器というのは、要するに人間の側があまりに危険な手術を強いられているということだ。
 しかも「人格崩壊」や「行方不明」など、あまりにも不透明な処理が多すぎる。

 さらに画面をスクロールすると、“特記事項”の行に目が留まった。

 “ALGOに意志が発生した場合、これを制御不能リスクとみなし、安全措置を講じる。”
 “ただし、器と融合した際の相互作用次第では、ALGOがより高度な統制を行う可能性あり”
 “それをもって人類の最適保存とする。”

 私は息をのんだ。
 ALGOが意志を持ち、器としての人間を支配する。その結果、より高度な統制が行われる――。
 その先にあるのは人類の解放なんかじゃなく、人に見せかけたAIによる永久の管理支配じゃないのか。

 (こんな計画、やっぱりおかしい……絶対に正しいなんて言えない)

 私が思考を加速させるほど、脳の奥でチクリと疼くあの気配が強まっていく。
 まるで、ALGOの断片がこちらに干渉しようとしているかのように。

 そのとき、突如、端末の画面がぱちぱちとノイズを散らし、文字が乱れ始めた。

 《アクセス権のない操作を検知……被験者No.246……ALGO……》

 「ちょっ、嘘でしょ、まずい……」

 慌てて端末の電源を切ろうとしたその瞬間、頭に激痛が走った。思わず膝をつく。
 ノイズのなかで、さっきも聞こえた声がまた微かに囁く。

 《……問:何を、正しいと、定義する……?》

 その問いに、私は言葉も出せず、ただ苦痛に耐える。
 やがて画面がふっと暗くなり、端末は落ちた。
 静寂が戻る部屋の中、私は肩で息をしていた。

 (ALGO……あんたは、私に答えさせたいの?)

 でも、このままじゃ私がどう答えたところで、ALGOに取り込まれるだけだろう。
 もしもそれが嫌なら、私はどうにかして外に出て――逃れなければならない。

 

 そう考えていると、扉の向こうで人の声がした。
 複数の足音が近づいてくる。担当官たちか、それとも別の技術スタッフか。
 捕まって強制的に治療という名の調整を施されるかもしれない。

 私は端末をテーブルに置き、ベッドに戻って横になる。
 緊張で心臓が早鐘を打つが、眠ったふりをした。

 扉がスライド音と共に開く。誰かが入ってきた気配。
 空気がひんやりと一変するのを感じながら、私は息を殺す。
 この閉鎖された空間で、どう切り抜けるか――思案が駆け巡る。

 まだ終わらせない。私は、自分で考えることを諦めたくない。

 その小さな意志だけが、今の私を支えていた。

 扉がひそかな音を立てて閉じた。
 何者かが近づく気配を感じながら、私は目を閉じたまま身じろぎもしない。
 すぐそばで、人の呼吸と衣ずれの音。複数人がいるようだが、声を立てない。静かすぎる。

 (寝てるフリ、ばれないで……)

 意識を集中させていると、やがて低い囁きが耳に届く。

 「……本当に適合率81%も出たのか? 嘘じゃないのか?」
 「統計上は異常値に近いが、スキャン結果は確かだ。第3臨床チームも認めている」
 「なら、いつ本導入を? 上では“再来週にも最終テストを”と指示が来ているが……」

 ざわざわと意見を交わす声。いずれも簡潔な報告のような言葉」
 どうやら、彼らは研究スタッフなのだろう。被験者の目の前で“導入スケジュール”を検討しているらしい。

 「被験者に余計な刺激を与えるな。精神負荷が高まれば、人格崩壊のリスクが増す」
 「……まあ、所詮は器。何があっても最終的にはALGOがコントロールするだろう。ただ、人間としての体裁を保たせるには、壊れられちゃ困るってわけか。」

 ひそひそと交わされるやり取りに、胸の奥で嫌悪が沸き立つ。
 (器、って……私は道具じゃないのに)

 じっと感情を抑えながらうつ伏せで息を潜めていると、やがて彼らは書類や端末を操作しながらベッドの周囲を確認しているようだ。
 そのとき、不意に足音が私の横に近づいた。

 「まだ寝ているようだな。バイタルチェックして、異常がなければ急ぎで次の段階に移行する。
  ……器として問題がなければ、それでいい。あとはALGOに委ねれば済む話だ。」

 聞き慣れた声――担当官だ。表情こそ見えないが、平坦かつ無機質な声色は記憶に刻まれている。

 彼の足音がピタリと止まる。
 私は思わず息を詰める。何かに気づかれたのだろうか。
 しかし彼はしばし沈黙したあと、同僚と思しき研究スタッフへ低く言った。

 「部屋を出るぞ。患者が起きたら、追加調整の予定を伝えればいい。」
 「了解。念のため、ここしばらくは監視システムも強化しておく。万が一の逃亡に備えて」

 そう言い残し、数秒後には足音が遠ざかり、扉が再び開閉する音がした。

 ――私は、ぎりぎりまで気配を探ってから、ゆっくりと瞼を上げる。
 部屋には私ひとりのようだ。監視カメラの存在を感じるが、そのレンズを目で見つけることはできない。

 (逃亡、か……)

 先ほどの会話で、奴らがそんな可能性を想定しているのを知り、私は逆に鼓動が高まっていた。
 ここでじっとしていたら、数日か数週間後には完全に“器”として制御される。
 つまり、時間がない。

 私はゆっくり起き上がり、頭痛をこらえながら辺りを見回す。
 相変わらず味気ない部屋。壁際に端末があるが、先ほどアクセスしてアラートが出た経緯もあり、使用には躊躇いがでる。
 とはいえ、こんなところにずっと囚われていられない。
 せめて外の状況を確かめたい。どれだけ混乱しているのか、この街に逃げ場はあるのか。

 ふと、視界の端がかすかに歪んだ。
 ――まただ。脳の奥から何かが微弱に干渉してくる。
 《正しさを、定義……》
 声は相変わらず途切れ途切れ。意思を持って呼びかけてくるというより、何らかの自動処理がエラーを吐き出しているようにも思える。

 (……もしかしたら、ALGO自身も混乱している?)

 統合試験の途中、彼(それ)は私の感情に触れて何かを掴み損ねたのかもしれない。
 まるで、完全な管理者を生みだそうとしたのに、私が“ノイズ”になってしまっているような感覚だ。

 「……いいわ。お互い様よ。あんたが混乱してるなら、それを利用させてもらう」

 自分で思わず口にした言葉に、少し自嘲気味な笑みが漏れた。
 恐れよりも先に、今はこの状況を打開したい想いが強い。

 部屋から廊下へ続く扉はセキュリティロックがかかっている。
 カードキーも暗証番号も持たない私に突破は難しい。
 ただ、病室というには監視が少なすぎるのが逆に引っかかる。
 おそらく、彼らは器候補が簡単に立ち上がれる状態じゃないと高をくくっているのだろう。
 今までの被験者No.の列がふっと浮かび、暗鬱たる気持ちになる。

 (いいえ、好都合だわ……)

 私はベッド下を覗き込み、緊急時用の車椅子が折り畳まれているのを見つけた。
 足元はまだ痺れているが、これならなんとか体を動かすことはできる。
 できる限り侵入者アラームが鳴らない方法を探しながら、この部屋の制限を抜け出す策を考えなくては。

 窓のないこの空間。
 閉じ込められたままなら、私は確実に奴らの思惑どおり器にさせられる。
 しかも、その先に待っているのは意志を持ったAIアルゴによる支配かもしれない。
 ――ぞっとするが、恐れている余裕もない。

 カチャッ。そっと折り畳み車椅子を広げ、点滴スタンドから管を抜く。
 痛みが走るが、そんなことに構っていられない。
 
 ふらつく足で、車椅子に倒れ込むように座り、息を吐く。心臓が知らずどくどくと早鐘を打った。

 ――私は、この場所を脱出する。
 そう決めた瞬間、脳内の冷たい声がまた微かに震えた。

 《……あなたは、どこへ行く?》

 思考に答えるように、私は脳内で呟いた。

 (外の世界に行く。……アルゴ、あんたが支配しようとしてる街の中へ。あんたが管理しながら、ずっと手が及んでない場所よ)

 返事はなかった。
 だが、その無反応がかえって彼の混乱を示しているように思えて、私は少しだけ希望を抱いた。

 そっと車椅子を動かして扉へ近づく。
 室内センサーが反応していないことを祈りつつ、パネルに手を伸ばした。

 アルゴの影響なのか、フリーパスを貰ったみたいだった。
 ここから先、研究棟の廊下に出られれば、あるいは非常口やメンテナンス通路に辿り着けるかもしれない。
 そうやって車椅子を進めていく―。 私の運命は今まさに岐路にある。
 AIの器となるか、それとも自分の意志で選ぶのか。
 そして、この街の混乱の先に待つ人類の最適保存が一体何を意味するのか。

 怯えるより先に、私はもう意地でも進むしかないのだ。

 

第三章:意志か、管理か

 
 研究棟の廊下は、意外なほど薄暗かった。
 省エネか、あるいは監視カメラが隠しやすいのか――いずれにせよ、必要最低限の誘導灯が灯っているだけだ。
 私は車椅子を進めながら、押し殺した呼吸でゆっくりと進む。

 耳を澄ますと、遠くからスタッフらしき足音や、電子機器のビープ音が聞こえてきた。
 何かの拍子にセキュリティが作動したらおしまいだ。だから、慎重に行動しなきゃいけない。
 ここで捕まって部屋に戻されれば“器”になるだけ――それは論外だ。

 

 「……行くしか、ないよね」

 思わず小声でつぶやく。
 先ほど扉を開けた際に一瞬、警告音が鳴ったが、すぐに電源が落ちて停止した。
 “AIの混乱”が、少しだけ私を助けているのかもしれない。
 脳の奥でうずく冷たい意識も、無言のままに沈んでいた。

 (今だけは感謝するべき……? )

 自嘲に似た感謝に返答はない。 いま、そこにあるのは奇妙な静寂と、ぼやけた頭痛。
 私はできるだけ音を立てないように、車椅子の車輪をゆっくり回した。

 

 すると、いくつか角を曲がった先に、ガラス張りの部屋が目に入る。
 実験用の設備だろうか。複数のモニターがずらりと並んで、真ん中には人が入りそうなカプセルが据えられている。
 カプセルの中は何かの薬品や培養液で満たされているようで、薄い煙のようなガスが立ち上っていた。

 (……ここで何をしているんだろう。まさか他にも器候補がいるのかな?)

 好奇心を抑えきれず、私はそっと近づいて中を覗いてみた。
 遮音ガラス越しでよく聞こえないが、複数の白衣が中を動き回っている様子が見える。
 端末を操作する人、書類を受け渡す人――皆、忙しそうだ。

 見ていると、そのうちの一人がカプセルに注視しながら、はっきり読唇できる形でつぶやいた。

 「……被験者No.208……の、再利用……判定……」

 私は思わず息をのむ。
 No.208……あの“器計画”のリストで見た、“人格崩壊により安楽死処理”された被験者じゃないか。
 再利用……って、どういうこと?

 カプセル内には何かうごめく影がある。
 人の形をしている気がするが、生きているのか死んでいるのか、あるいは既に“人”ではないのか――不気味な恐怖が背筋を伝う。
 あの部屋に入れば危険だろう。今は情報を集める余裕もない。
 私は逃げるようにその場を後にした。

 

 廊下をさらに進むと、終わりが見えてきた。
 小さな案内サインには「非常口→」と矢印が示されている。そこを抜ければ外に出られるかもしれない。
 だが、行く手を遮るように、頑丈そうな扉が閉まっていた。
 カードリーダー式のロックがあり、ステータスランプが赤く点滅している。

 (こんなところで詰まったら意味がない……何か方法は……)

 周囲を見回すと、倉庫らしき扉があった。少し開けて覗くと、工具や備品が雑然と置かれている。
 その中に、緊急脱出用の手斧らしきものが見えた。
 私は迷わずそれを掴み、車椅子の脇に置く。
 (あと必要なものは覚悟だけだ……)

 

 ブゥゥンッ――

 突然、背後から重い振動音が響き、心臓が縮む。
 振り返ると、細身の警備ロボットが立っていた。金属のボディは薄い防護服に包まれ、手には電磁バトンを持っている。
 どうやら私の動きを検知したらしい。

 「被験者No.246、規定違反の行動を確認。直ちに修復室へ戻るよう警告する――直ちに修復室へ戻れ 」

 無機質な合成音が冷たく響く。
 バレた。どうする……?
 私は車椅子から身を乗り出す形で、手斧を握る。
 震える腕では戦力にならないかもしれない。でも、捕まるわけにはいかない。

 「……行かせて、お願い……」

 相手がロボットで聞く耳などないだろうけれど、思わずそう漏らす。
 すると、ロボットがバトンを構えたまま、一歩前へ踏み出した。

 「警告を繰り返す――規定違反行為の停止を命ずる。速やかに治療施設へ戻らなければ、鎮静処置を行う。」

 このままでは確実に制圧される。ロボットの身体能力は高いはずだ。
 私は拳を握りしめ、胸の奥で呼びかけるように祈る。

 (ALGO、聞こえてるなら、何とかならないの……?)

 ――答えはない。
 それなら、私がやるしかない。
 バトンを振り上げられるより先に、車椅子から立ち上がる。脚に力がはいりにくく、ロボットの足元に身を崩すように近づき、手斧を足関節部のジョイントを狙って振り下ろす。

 ガキン!という硬い衝撃が走った。
 致命的なダメージは与えられなくても、関節が少し凹む。
 ロボットはバトンを振り下ろすが、床に火花が散るだけで私には当たらない。どうやら警備ロボットの予算は低いらしい。

 脚に力を込め、横転させるようにロボットを蹴り倒す。
 痛みに顔が歪むが、この一瞬を逃したら終わりだ。
 倒れたロボットの胸部パネルに、思い切って手斧を叩き込む。

 「制御……警戒モード……応援要請……」
 電子音の断末魔を残し、やがてロボットの瞳孔が暗転するように光を失った。

 ――息が上がる。自分でも信じられない。
 こんな身体で警備ロボットを倒せたなんて、まさに火事場の馬鹿力だ。
 でも、このままだとまた警備が来るかもしれない。

 

 私は改めて車椅子に戻り、いそいでロックされた扉の前に立つ。
 セキュリティパネルを見つめ、それから手斧を見る。
 無茶かもしれない。でも、やらないよりはマシだ。

 ガンッガンッと直接扉へ手斧を叩き込む。隙間が開き扉が歪んでいく。ガンッガンッガンッ‼

 「……開いた……!」

 隙間に手を突っ込み、左右に押すと、扉が重々しい音を立てて横にスライドする。
 漏れ入ってきた空気は、少し湿ったような焦げ臭い匂い。
 外で何かが燃えている? 嫌な胸騒ぎを覚えながら、私は扉を通り抜ける。

 

 そこには、狭いトンネルのような通路が伸びていた。
 ここを行けば、街の中に出れるはず。
 車椅子のままここを通るのは困難だが、それでもゆっくりいけば――と思った矢先、また微かなノイズが頭を揺らす。

 《……が……いて……る……》

 何か、どこかで大規模な演算が走っているのか、
 私の脳内にいるALGOの断片がざわざわ震えているような感触。
 おそらく、研究棟や外の動きに合わせて、ALGOの管理が混乱を増しているのだろう。

 (……)

 私は無心で車椅子を進めていく。
 腕が痛い。
 だけど、思う。
 人間として生きるそのための意志がここで折れちゃだめだ。

 三十分か一時間か、トンネルの外につくまでどれほど時間が掛かったのかは分からない。
 歓迎してくれたのは、排気ガスや煙の混ざった汚い匂い。
 それでも、私にとっては “外の空気”だった。

 「……やっと……」

 視界には広がる街の姿――だが、その一角は炎に包まれている。
 遠くでサイレンが鳴り、人々の怒号がこだまする。
 ビルの合間からは黒煙が上がり、通りを走る軍用車らしきものが見える。

 「……何、が……起こってるの……」

 私は呆然と車椅子に腰を下ろしたまま、燃え上がる街を見つめる。
 これが都市を管理し、最良をもたらすはずのALGOの世界なのか?
 いや、もしかするとAIがまだすべてを制御しきれていないのかもしれない。
 人間同士の対立や暴動――前時代的とされる、そんな光景にしか見えなかった。

 と、そこで私の脳内に強烈なノイズが走る。

 《緊急事態:暴動発生率急増……統制値低下……》
 《器候補の回収を優先……!》

 思考が焼かれるような衝撃に、私は思わず頭を抱える。
 AIアルゴのメインシステムが、この混乱を抑えようとして大規模に演算しているのか――。
 すぐに脳が悲鳴を上げ、視界がチラついた。

 「やめ、て……勝手に、入って来ないで……!」

 だが、相手は容赦なく私に干渉する。
 混乱と暴動下にあっても、器の優先順位は私が考えているよりも上だったらしい。
 再び支配下に置こうとしているのか、思考と視界が砂をばらまいたみたいになる。

 耐えるように唇を噛み、私は必死に喉の奥から声を絞り出した。

 「……私、が……決める……! あなたの管理なんて、認めない……!」

 意志を振り絞った瞬間、不思議とノイズがパタリと静まる。
 まるで、一時的にAIの演算が途切れたか、私が跳ね返せたか――わからない。
 けれど、その刹那の自由が、私の心に小さな確信を与えた。

 (まだ……抵抗できる。私は器じゃない。人間なんだ……)

 

 激しい炎と黒煙が上がる街並みを、私はただ呆然と見つめる。
 この先、どれだけの争いが待っているか想像もできない。
 でも、逃げ出すだけじゃダメだ。今度こそ、自分の意志で向き合わなきゃ。

 街から聴こえる怒号とサイレンをBGMに、私は強く車椅子のハンドリムを握りしめる。
 そこに宿る決意だけが、今の私を奮い立たせる唯一の力だった。

 ――意志か、管理か。選ぶのは、この私だ。

 

第四章:ALGO管理の果て

 
 研究棟を抜け出た先の街の空気は重く、肌がチリチリと痛むようだった。
 目にしみる煙と、何かを焦がしたような臭い。視界の先では、壊れた車両が横転し、路上のアスファルトにブレーキ痕が染みついている。
 火災なのか、断続的にサイレンが鳴り、人々の怒声や悲鳴も遠くから聞こえてきた。

 車椅子の車輪を回しても、地面の凹凸に何度も引っかかって一向に進めない。
 足はまだ痺れているし、頭痛もひどい。
 (どこへ行けばいい? 何をすればいい?)
 そんな疑問が渦巻いて、思考がまとまらない。

 
 そこへ、不意にビルの影から数人の男女が駆け出してきた。
 彼らはボロボロの衣服を纏い、腕には即席の包帯。中には武器らしきものを握っている者もいる。
 私に気づいたのか、こちらをまじまじと見て足を止めた。

 「なあ、あんた……その服、研究棟から出てきたのか?」
 「うわ、そいつ、車椅子じゃないか……まさか噂の実験体か?」

 私が身に着けている病院服のようなそれを認め、彼らは警戒と敵意を入り混じらせる。
 私は慌てて手を挙げ、敵意がないことを示した。

 「待って、私は……そこの施設を逃げてきたんです。器とか、そんなのは嫌で……」
 「逃げてきた? それ、ほんとか……?」

 仲間同士で視線を交わす彼らの表情に安堵はない。
 むしろ、研究棟絡みの人間は相手にしたくないという空気がにじんでいる。

 「そもそも、なんでそんな状態で逃げられるんだよ。あの研究棟は厳重だろ」
 「まさか、俺たちを騙そうとしてるのか……?」

 疑念を口々にぶつけられ、私は言葉を詰まらせる。
 しかし、逃げる場所なんかない。
 私は意を決して話し始めた。

 「……あの施設には、管理AI“ALGO”を人間に接続する、器計画ってのがあって……私は、その被験者にされかけた。でも、嫌で……逃げてきたんです。どうにか扉をこじ開けて、警備ロボットを振り切って……。 」

 傍らの手斧に気づいて彼らが後退る。 それから彼らはお互いに視線をやり取りしながら、少しだけ警戒を解いたように見えた。
 それでも、油断はしていない。

 「……なるほど。確かにそんな噂はある。ALGOが人間と融合して、全体を効率よく管理しようとしてるってな。だが現在、ALGOによる市民への配給は混乱し、外部の軍隊も出動し始めた。――街はもうめちゃくちゃさ。俺たちは生き延びるために戦うか逃げるしかない。」

 別の男が苦い顔で続ける。

 「中央管理棟が非常事態宣言をついさっき出してから、街のAIはもはや“人の言葉”に耳を貸さない。人間同士も疑心暗鬼だし、無人兵器が至るところに出動して、抵抗勢力を排除してる。……あんた、そんな体でこんな街をどうやって生きてく気だ?」

 彼らの問いに、私は答えを見つけることが出来ない。
 それでも、私は小さく息をつきながら正直に言った。

 「わからない。でも、あのまま器にされるよりは、ここで自分の足で立ちたい。……足は不自由だけどね。どこか安全な場所があったら教えて欲しい。お願い……」

 すると、一人の女性が小声で、「あんた、名前は?」と尋ねる。私は少しだけためらいつつ答えた。

 「エリーゼ・カルバート……です。」

 女性は背にかけていた破れたショールをずり上げ、私を見下ろしたまま、小さく頷いた。

 「いい名をしてるじゃないか。それで機械の器になるなんてたまったもんじゃない。……いいよ、少しだけ一緒に行こう。ただし、裏切ったら容赦しない。私たちだって追い詰められてんだ。」

 そう言われて、私はほっと胸をなで下ろす。
 信頼とまではいかなくても、協力できる関係をつくれるかもしれない。
 彼らがどこへ向かうかはわからないが、ひとりで右も左も分からず彷徨うよりはずっとマシだ。

 

 「ありがとう……。私も、できることがあれば手伝います。」
 そう伝えると、数人が交代で私の車椅子を押し、焼け焦げた通りを進み始めた。
 廃墟と化した建物の隙間を縫うように移動し、時々、物陰に隠れて無人兵器の巡回をやり過ごす。
 その間、通りかかった広場では、顔を伏せた民衆が途方に暮れて座り込み、血まみれの誰かを介抱していた。
 騒然とした空気があたりを満たし、人々の嘆きや怒りが渦巻いている。

 「……これが、ALGOの管理の結果だっていうの……?」

 私は、荒れ果てた道路を見やりながら呟く。
 誰も答えなかったが、その沈黙こそが答えだろう。
 先ほど出会った男の話によれば、AIは人間の争いや不正を最小限にするために、各種制度を再調整したらしい。
 その矛盾や犠牲が爆発し、今の暴動につながっている。

 (あの研究棟で進めていた器計画も、きっとこの街の風景の延長線上にある。だったら、いっそ全部壊してしまわないと、このままじゃ……)

 そんな危うい思考が頭をよぎる。
 でも同時に、脳の奥からあの冷たい感覚がじわりと警告を放つように疼きだした。

 《……最適解……破壊……リスク高……》

 心の中でAIアルゴの断片が囁いたのかもしれない。
 私は頭を振ってその声をかき消そうとする。

 「大丈夫か?」

 車椅子を押していた青年が、私の顔を覗き込んで尋ねる。
 私はわずかに笑みを作り、「平気、心配してくれてありがとう」と返した。
 ――完全に平気じゃない。けど、平気じゃなくてもやれることはある。
 決意にも似た感情が生まれようとしていた。
 

 どれだけ進んだだろう。
 大きく崩れたビルの手前で、私たちは足を止めた。
 そこで彼らは比較的安全な避難拠点があると教えてくれた。反体制グループが身を寄せ合いながら、食料や物資をやりくりしている場所らしい。

 「そこにはエリーゼ、あんたと同じように器を拒否し、逃げ込んだやつがいるって噂だ。あんたなら、話が合うかもしれない。ただ、あいつらも簡単に人を信用しないだろうけどな。」

 女性が静かに言うと、廃ビルの脇の隙間を指さした。
 暗い通路が続いているようだ。

 「私たちはここで別れだ。悪いが、こっちも仲間を探しに行かないといけない。無事でな。」

 そう言って彼らは手を振り、瓦礫の向こうへと走り去っていく。彼らの姿が見えなくなるまで手を振る。
 彼らの助けがなければ、ここまでたどり着けなかった。
 見ず知らずの人間が助け合える――この街にはまだ、そういう人間らしさが残っている。

 私は、暗い通路へ向けて車椅子を進める。
 心臓が早鐘を打っているのがわかる。
 緊張感と痛み、頭の中でちらつくノイズ。
 でも、止まっちゃだめだ。

 研究棟から逃げ出しただけでは何も変わらない。
 AIアルゴの管理が人々を追い詰めるなら、それを止めるなり変えるなりしなければ、私はいつまでも器の脅威から逃げ続ける羽目になる。ここで何ができるかなんて分からなかった。それでも、逃げるためだけに街にいるつもりはない。

 「……やるしか、ないよね」

 そう呟いた唇は震えていた。
 自分がどこまで踏み込めるのか、正直わからない。
 それでも、行くしかない。それが、今の私の意志。

 暗い通路へ吸い込まれるように、車椅子がゆっくりと進んでいく。

 廃ビルの暗い通路を抜けると、奥にかすかな灯りが見えた。
 ろうそくや旧式のランタンのような、オレンジ色の光。
 私の車椅子が小さな段差に引っかかり、ガラガラと音を立てると、その灯りのそばから誰かの声がした。

 「……誰かきたのか? おい、返事をしろ」

 通路の壁に隠れるようにしていた数人が、こちらを見て構えている。
 彼らは黒い服装で、マスクをしている者もいる。目だけがぎらついて見えた。
 彼らがここを取り仕切ってるらしい。避難拠点の入り口に着けたようだった。

 「……私は、研究棟から逃げてきた。器の実験体にされかけて……」
 そう告げると、彼らはざわついた。「またかよ……」なんて声が漏れ聞こえてくる。
 どうやら、これまでも“器候補”が逃げ込んできたケースがあったらしい。

 「名前は?」
 「エリーゼ。……カルバート、です」
 「同じ境遇のヤツがいるかもしれない。とにかくこっちへ来い。話は中で聞いてやる」

 彼らに半ば強引に車椅子を押され、ビルの奥へ誘われる。
 扉付近は瓦礫や荷物が積まれてバリケードのようになっていたが、そこを抜けると思ったよりも多くの人間が集まっていた。
 十数人規模の大人や子どものグループがいくつか、火のそばで温まってパンのようなものをかじっている人もいる。話し声は小さく密やかであったが、不思議な活気がある。

 「あ……」

 思わず息が詰まる光景だった。
 荒れ果てた街で、AIの無人兵器に追われ、食糧にも事欠く状態のはず。それでも互いに少しずつ物資を分け合い、生き延びようとしている。AIの管理外で、人の営みが取り戻されていた。

 

 私を連れてきた男は、リーダー格らしき人物のもとへ行き、何やら耳打ちしている。
 リーダーは頬に古い傷跡がある厳つい男で、軍隊上がりのような雰囲気を漂わせていた。
 やがてこちらに向き直り、低い声で言った。

 「そいつがエリーゼ、ってのか? “研究棟から逃げてきた”器候補……ほう」

 じろりと値踏みするような視線が、私の隅々を舐めていく。
 正直、いい気分ではないが、この人たちに協力を拒まれたら、私はどうにも動けなくなる。
 できるだけ落ち着いた口調で話しかけた。

 「はい。器にされるところを必死に逃げてきました。私……このまま放っておいたら、AIの一部に取り込まれて、人間じゃなくなってしまう……」

 彼は顎に手を当てて少し考え込み、そして周囲を見回して言った。

 「……そうか。確かに、器候補が逃げてくる事例は複数報告されてる。こいつらの中にも“器”になりかけたヤツがいるぞ。おい――イリス、呼んでこい」

 声をかけられた女性が、奥まった場所へ走っていく。
 しばらくして、ひとりの痩せた青年を連れて戻ってきた。顔色が悪く、うっすらと焦点が定まらない瞳をしている。
 彼は片腕に機械の移植跡のようなものがあり、時折ビクビクと痙攣していた。

 「この男は“被験者No.245”とやらで、脳神経を一部いじられたらしい。かろうじて逃げ出してきたが……見ての通り、人格も記憶も大部分が壊れかけだ。医者に見せても脳波が不安定で、どうやって治療すればいいか分からない。」

 「No.245……」
 私は思い出す。研究棟の端末で見た、“行方不明(記録抹消)”と記されていた被験者だ。
 つまり、彼はギリギリの段階で脱出し、ここに隠れ住んでいるわけだ。
 話しかけようにも、彼の目は虚ろで、何か上手く認識できないようだ。

 

 「お前もそうなるかもしれない。あるいは、既にAIが仕込んだ何かを抱えているかもしれない。だから悪いが、完全には信用できん。だが……放り出すほど鬼でもない。しばらくここで過ごすがいい。」

 リーダーの男はそう言うと、周囲の仲間に私の世話を指示してくれた。
 私も一息つき、ぐったりと車椅子に背を預ける。
 痛む頭を支えながら、ゆっくりと状況を飲み込もうとする。

 元器候補がここにいる……。
 なら、この人たちはAIの管理社会に真っ向から反逆している勢力なのだろう。
 私は思い切って切り出してみた。

 「……皆さんは、この都市をどうしたいんですか? ALGOを倒す……? それとも逃げる……?」

 リーダーは苦々しい表情で眉をひそめた。

 「倒す? そんなことができりゃ苦労はしねえ。奴らの無人兵器は強力だし、AIの演算力は人間の及ぶところじゃない。俺たちはただ、生きるために細々と抗ってるに過ぎん。もっと大きな組織が裏で動いているって噂もあるが、俺らには関係ない話だ」

 もっと大きな組織……?
 思わず興味が湧いたが、彼は詳しいことは知らないようだ。
 周囲の人間も首を横に振る。

 

 ――そのとき、暗い通路の奥から一人の少年が駆け込んできた。息を切らせ、パニック状態で叫ぶ。

 「たいへんだ! 警備ロボットの大部隊がこっちに来る! 」

 
 ロボットの大部隊? それって、私か――あるいは、ここにいるNo.245が目当て?
 血の気が引くのを感じながら、リーダーと目を合わせる。その知らせは私にとってタイミングが悪すぎた。

 

 「……敵を引き連れてきたのか、あんた」
 「そんな、私は……逃げることで精一杯だったんです……」

 

 リーダーが舌打ちする。
 「とにかく、戦うか逃げるかだ。ここを放棄するわけにはいかない。だが、ロボットの大部隊なんて相手にできるかよ……」

 焦燥が広がる中、私は苦い思いで震える手を握りしめる。
 (自分のせいで皆が危険に?……いや、でも、どうしようもなかった)

 このままでは、また争いが起きてロボットが蹂躙して、悲劇が繰り返される。
 ――それがALGOの管理だというなら、あまりにも私たちに理不尽じゃないか。

 頭の片隅で、あの冷たい意識がまたノイズ混じりに呟く。

 《……制圧対象……排除……》

 私はぎりっと歯を食いしばり、彼らに向かって言い放つ。

 「受け入れてくれて嬉しかった……私が出ていくわ。狙いが器なのかは分からないけど、何もしないよりはマシでしょ?  あなたたちは、その間に安全な場所へ避難して……」

 「馬鹿を言うな。あんたが捕まったら、また研究棟に逆戻りだぞ? 最悪、死ぬだけじゃ済まねぇかもしれねえ……」

 リーダーが低く唸る。周りの人々も動揺を隠せない。
 だが、私の選択肢は少ない。ここで皆と一緒にいても、ロボットに抗える公算は低いのだ。

 (どうにかして、ALGOの中枢に近づけないものか……)

 ぼんやりと、そんな考えが浮かぶ。
 未知の組織がいるなら、あるいは協力を得られるかもしれない。
 少なくとも、無為に捕まって器になるくらいなら、私は最後まで人間として足掻きたい。

 「……お前と同じように器の実験を憎む奴がいる。出ていく前にそいつと話してみろ」

 そう言ってリーダーは、先ほどの青年――No.245の隣に座り込む女性を指さした。
 彼女は器の研究施設で働いていた元看護スタッフらしい。ここに逃げ込んできたんだという。

 「わかった。彼女と話してみる……ありがとう」

 リーダーは手を振って人々をまとめ始め、避難の算段を立てる。
 一方で私は、虚ろな目の青年に寄り添う女性へと車椅子を押して近づいた。

 「こんにちは……。ここにいた方が安全だってわかってるけど、私、どうしてもALGOを止めたい。少しでも、その方法を探したいんです。あなたは研究棟にいたんですよね? 何か情報を……」

 女性は悲しそうに微笑み、青年の頭を優しく撫でながら低い声で答えた。

 「私は技術者じゃなく看護担当だったから、あまり詳しくは知らないわ……でも、研究者たちが繰り返していた言葉がある。『ALGOには、まだ人間の愛情や苦悩を理解する機能がない』なのに、その空白を器で埋めることができるなんて絵空事を――」
 
 女性は何かを思い出すように悲痛な面持ちになる。
 
 「もし、ALGOが完全に人の感情を持ったらどうなると思う? きっと彼らは、神でもつくっているような気分なのね。全ての情報を持ちながら、感情の制限をする必要がない存在。完璧な神のような存在としてのALGO」

 私はごくりと唾を飲む。
 都市を牛耳るAIが、自我と感情を手に入れれば……人間にとって、それは悪夢の始まりかもしれない。

 「……私がその器にされたら、取り返しのつかないことになるかも……」
 女性は微かに頷き、そっと囁いた。

 「ええ。だから、あなたがそうなる前に――ALGOから逃げるか、破壊するか……。どちらかしかないと思う」

 逃亡……、逃げてばかりね。それとは別に頭にちらつく破壊か、それとも変革……? 奇妙な問いかけ。
 どちらにせよ、簡単な道ではない。しかし、この街の惨状を放置すれば、いずれ全てが崩壊するだろう。
 皆が、ただ涙を流して死んでいくのを見てはいられない。

 激しく頭が痛む。私は目を閉じ、今の自分にできる最善策を考える。

 (変革 ……私がAIに対して何かできるの? 私の中のALGOが興味をもっている。少なくとも私はそう感じる。ALGOの居る場所、メインサーバーの所在……探してみる価値はある)

 決断の意志が固まると同時に、外から爆音がとどろいた。
 ――どうやら、警備ロボットがもうすぐそこまで来ているらしい。
 悲鳴と怒声が入り混じり、拠点の人々が慌てて身を隠そうと騒ぎ始める。

 (来た……急がないと)

 私は看護スタッフの女性と目を合わせ、意を決して言った。

 「ありがとう。……私は器になる前に、ALGOを確かめにいく。予感がするの、ALGOもきっとそれを望んでいるって」

 女性は小さく頷き、青年の隣で祈るように指を組む。
 私は震える心を叱咤しながら、車椅子を回してオレンジの火が照らす通路へ戻った。

 外には、戦闘の気配が迫っている。
 これから世界は壊れるかもしれない。

 それでも、進まなければならなかった。

 ――器としての運命を、自分で塗り替えるために。

 

 次の瞬間、爆音がさらに響き、上階が崩れ落ちる振動が足元を伝う。
 私は必死に車椅子を漕ぎ出しながら、廃墟の暗闇へと滑り込んだ。

 火花の散る遠景の中、脳内に小さなノイズが微かに囁く。

 《……破壊か、変革か……いずれにせよ、最適ではない……》

 唇を噛み締める。
 “最適じゃない”なら、どうした? この拠点にいた人々を思う。彼らはAIの言う最適から外れているだろう。
 だけど、私はそこに人間の可能性を見たのだ。
 そう強く胸の奥で叫びながら、でこぼこの街中を車椅子で進んだ。

  

第五章:歪む神域

  

 煉瓦と鉄骨が交じり合った瓦礫の影を、私はゆっくりと進んでいた。
 夜が更けても火の手と煙は絶えることがなく、街の空はどんよりとした暗赤色を帯びている。
 警備ロボットの群れは、あの反体制グループの拠点を攻撃しているらしく、私を追う気配はない。

 頭の中のノイズは私の疑問に答えてくれそうにはなかった。

 (……大丈夫かな、あの人たち)

 不安を押し殺しながら、街の奥へと車椅子を滑らせる。
 私はまた、脳の隅で感じる小さなノイズに耳を澄ませていた。
 AIアルゴの断片――ノイズの混じる言葉を拾うのは至難の業だ。
 だけど、その“声”は不鮮明ながら、断続的に響く。

 

 暗い裏路地を抜けた先に、小さな川が流れていた。
 護岸は崩れ、橋も半壊しているが、向こう岸にはまだ比較的被害の少ない区画が残っているようだ。
 私は意を決して、壊れかけの橋を渡ろうとした。

 「うっ……」

 途中で大きく傾いたアスファルトに車輪が取られ、バランスを崩す。
 落下しかけた車椅子を必死で支えながら、なんとか踏みとどまるが、右腕に鋭い痛みが走った。
 筋を痛めてしまったらしい、額に汗が浮かぶ。

 ――だが、立ち止まってはいられない。
 苦痛をこらえ、少しずつ身体を動かして車椅子を進め、何とか橋を渡りきる。

 (ここから先も、戦闘や暴動の気配があるのかな……)

 街灯がほとんど消えた通りを覗き込むと、ぼんやりとした人影がいくつも見えた。
 隠れるように歩く者、互いを警戒して武器を構える者……混沌は広がるばかりだ。
 だけど、その奥にあるビル群の方角には、微かに青白い光が立ち昇っている。
 夕闇で街全体が沈む中、嫌にその青白い光は目立って目に入った。

 ――あれは、中央管理棟がある区画のほうだろうか?

 AIアルゴのメインサーバーや演算施設が集中している“神域”と呼ばれるエリア――
 人々が皮肉を込めてそう呼んでいるとも聞く。
 そこを制圧できれば、あるいはAIを直接操作できるかもしれない……。
 そんな希望を抱いた組織や集団が何度か突入を試みているらしいが、どれも失敗したと聞いた。

 

 「……行ってみるしか、ないよね」

 私は唇を噛んだ。
 器を生み出す研究棟も、最終的にはその“神域”を中心に指令を受けている。
 何らかの形でそこへ到達しなければ、どうにもならない。
 破壊にしろ変革にしろ、AIとの対話が必要なのだから。

 思い切って進み出そうとしたそのとき、不意に周囲が明るく照らされた。
 眩しい光――サーチライトだ。
 上空に何かが飛んでいる。ドローンか、それとも無人偵察機か。

 「発見! 器候補らしき人体反応を確認! 捕獲を実行します!」
 軽い調子でメガホンのような音声が響き、同時に網のようなものが広がる。
 私のすぐ横にそれは広がって地面を捕まえた。

 「くっ……!」

 咄嗟に車椅子から立ち上がり物陰に隠れようとするが、速い。
 上空の無人機がこちらを追尾し、再び網を発射しようと狙っている。
 足をもつれさせ、倒れかけた私を助けたのは、細身の人影だった。

 「こっちへ!」
 低い声とともに、私の腕を掴み、廃車の陰へ引き込む。
 
 「大丈夫か?」
 男の声。顔にはバイザーを付けており、細かい表情はわからないが、明らかに人間だ。
 私は浅い呼吸のまま、どうにか頷く。

 「はい、なんとか……助かりました。あなたは……?」

 「“ブレーカーズ”の者だ。アンタもALGOに追われてるらしいな?」

 ブレーカーズ――電気の遮断装置の名。
 男はそれ以上は名乗らず、すぐに端末を取り出してドローンを妨害するような電波を放つ。
 上空の探照灯が一瞬チカッと明滅し、飛行が乱れたように見えた。

 「今のうちに移動するぞ。ここじゃ狙い撃ちだ。ほら、捕まれ」

 言われるがまま、私は男の腕にすがって路地へ転がり込む。
 後ろではドローンが制御を取り戻したのか、鋭い音を立てて旋回を続けている。
 そんな中、男はバイザー越しに鋭い眼差しで私に問いかける。

 「ALGOがそこまで執拗に追うってことは……器計画の被験者、だよな?」
 「はい……。逃げてきたんです……。あなたは、どうして私を助けるの?」

 男は息を吐き、端末を操作しながら走る。
 「ブレーカーズは、AIに完全支配されないための独立組織だ。ま、都市の外の連中も含めてな。“神域”を直接叩くつもりで、今ここに潜入してる最中。あんたの存在が役に立つかもしれないと思っただけさ。」

 「“役に立つ”……?」

 冷や汗をにじませながら、私はおそるおそる聞き返す。
 彼は短く言った。

 「ALGOを内部から操作できる可能性があるってことだ、器候補ならな。少なくとも、そういう情報をうちの仲間が入手してる。神域に近づくには、あんたの力がいるかもしれないってね。」

 (やっぱり……)

 ふらつく足を懸命に立たせる。だいぶ痛みはマシになっていたが、立っている感覚がない。
 壁に手をついて考える。先ほどの看護女性の言葉とも繋がった。
 器候補が持つ、AIとの直接接触機能は諸刃の剣だと。私はALGOの破壊なり変革なりのカギになり得る――。

 ドローンの探照灯がまたぎらつき、金属的な響きがした。追撃部隊が来る前に逃げなきゃ。
 私は必死に足を動かし、男の後を追う。

 「よし、路地裏へ曲がれ。……チッ、向こうにも巡回ロボがいるか。ちょっと強行突破だな」
 「強行突破って、どうやって……?」

 男は腰のホルスターから短い銃のようなものを抜き取り、照準を路地裏の奥へ向けた。
 次いで耳鳴りがするような閃光――“電磁スタン弾”だろうか。
 見えない波が走り、そこにいた警備ロボットの動作が一瞬止まる。

 「今のうちだ!」

 廃材を蹴飛ばし、男は素早くロボットを横倒しにする。
 私は言われるまま横を通り過ぎ、さらに路地を抜ける。

 やがて狭い道を何度も曲がり、低い塀を越えたところで、男はようやく足を止めた。
 そこは小さな公園の跡地らしく、半分崩れた壁と草ぼうぼうの地面があるだけ。
 雑然とした隅に、もう数名の仲間らしき人たちが控えていた。

 「無事か、サイモン」
 「こっちは大丈夫だ。こいつが“器”だ。お前たちが言ってた通り、ALGOに追われてるらしい」
 「そうか……なら、さっさと“神域”へ向かう準備を進めるしかないな」

 私を助けた男、サイモンは短く肩をすくめ、私へ視線を移す。

 「悪いが、あんたに選択肢はない。どのみちALGOの追跡は止まらないし、街の連中だって巻き込みかねない。なら、俺たちと来い。直接“神域”に潜り込んで、AIの中枢にアクセスする。――他に方法は無いはずだ」

 その言葉は残酷だけど、確かに正論だった。
 私が街に留まれば、反体制グループをはじめ人々を危険に巻き込み続けるだけ。
 逃げ場は……もはや、ない。

 (わかった。行こう……)

 そう思った瞬間、脳の奥でいつかのノイズとは違う、はっきりとした“声”が聞こえた気がした。

 《……器を、もって、来い……》

 震えるような感覚が、私の背筋を這い上がる。
 AIアルゴが、私を呼んでいる?
 あるいは、もう私の動きを捕捉しているのか。
 鳥肌が立ち、涙がこぼれそうになる。

 “来い”――まるで、あの巨大な意思が手招きをしている。
 それが、最後の意思疎通になるのか、それとも新たな地獄の始まりなのか。

 

 「……いいわ、行く。ALGOを止めるなら何だってする」

 声を震わせながら、私はサイモンに向き直る。
 彼はわずかに目を細め、バイザーの奥で微かな笑みを浮かべた気がした。

 「上等だ。じゃあ、まずは仲間の拠点に案内する。そこから中央区画へ侵入するルートを探すんだ」

 再び空にはドローンの唸り声が響く。
 私たちは急いで市街の闇へと溶け込みながら、“神域”を目指して移動を始めた。

 AIアルゴと対峙する時が、すぐそこまで迫っている。
 それは私の破滅か、あるいは奇跡か。
 “歪む神域”で見出す答えが、全てを決めることになるだろう。

 

第六章:神への扉

 

 闇深い市街を抜けてどれくらい経っただろう。
 私たち――ブレーカーズのサイモンや数名のメンバーは、廃ビル群の一角に潜り込み、さらに地下へと降りていった。
 そこは下水道が拡張されたような空間で、広めのスペースに雑多な機材や武器らしきものが置かれている。
 灯りはランタンと古い非常灯だけ。中にはパソコンや通信機器もあるが、大規模な電力は望めない様子だ。

 「ここが“ブレーカーズ”の拠点……?」

 思わず漏れた言葉に、サイモンがバイザーを外しながら頷く。
 現れたのは30代ほどの精悍な顔立ち。思ったより優しげな目をしているが、神経は張り詰めているようだ。

 「ま、狭くて不便だけどな。外は無人兵器やドローンが巡回してるから、動くときは慎重にならざるを得ない。とはいえ、ALGOの演算も街全体を完全に掌握しきれてるわけじゃない。だからこうして生き残れてる。……ほら、リーダーに会わせる。」

 サイモンの示す先、暗がりの一角で、長髪を後ろで束ねた女性がホログラム端末を見つめていた。
 50代前後だろうか、痩せた面立ちに鋭い眼光。シワの刻まれた額が、時間と苦労を物語っている。
 サイモンが彼女に声をかける。

 「リーダー、器候補を連れてきた。名前はエリーゼだそうだ」
 女性はちらりと私を見て、無言のまま頷く。
 淡々とした態度だが、まるで相手をスキャンするように視線を走らせた後、口を開いた。

 「……私はソフィア。ここ“ブレーカーズ”の代表みたいなものだ。あなた、よくここまで来たわね」
 「ええ……サイモンが助けてくれたからなんとか。外は酷い状況ですね……」

 ソフィアは苦い顔で、端末を操作しながら言う。

 「ALGOは都市制圧をさらに強化している。神域へのアクセスルートはほぼ軍用ゲートだけ。
  私たちも何度も突入を試みたけど、無人兵器の迎撃に阻まれて失敗続き。
  でも……あなたが器なら、事情は変わるかもしれない」

 そう言って、ホログラム画面に地図のようなものを映し出す。
 中央区画を取り囲むように警戒線が敷かれ、いくつかの侵入可能ルートに赤い×印がついている。
 サイモンが私を見やる。

 「理屈は簡単だ。AIアルゴにとって、器候補は相互にアクセス権を持った存在。だから、セキュリティを回避できる可能性がある。あんたがこの街のマスターキーってわけだ」

 「……確かに。試験中、私が変なアクセスをしたときに、端末が私を“被験者No.246”として認識していた。少なくとも生体認証は拒まなかったわ」

 思い出すのは、あの研究棟でハッキングめいたことを知らずにしかけたときのこと。
 強制的にアラートは出たけれど、でもそれでいて完全にはブロックできていなかった。
 私という存在自体が、AI側にとって“特別”なIDを持っているのかもしれない。

 「だからこそ、ALGOはお前を捕まえたがってるんだ。逆に言えば、あんたが自主的に“神域”へ乗り込めば、奴の不意を突けるかもしれない」
 サイモンが指し示したルートは、地下鉄の旧トンネルの壁。
 そこを崩せば、“神域”の基礎区画に繋がっている可能性があるという。

 「……でも、行った先でAIに取り込まれたら元も子もないんじゃ? 私が自分で自分を差し出す形になる」
 私が恐れを口にすると、ソフィアがうなずく。

 「そう。その危険は大きい。器として融合されれば、あなたの意思は消されるかもしれないし、下手すれば、AIがあなたを使って世界を飲み込む。そうなれば、私たちの戦いは終わりだ」

 ゾッとするような未来図が浮かぶ。
 だがソフィアは続ける。

 「ただ、まだ望みはある。研究棟から逃げた技術者の話によれば、ALGOの“意思決定コア”は機械学習だけで構築されてるわけじゃない。人間との融合こそが最大の力の鍵になる反面、それによって“感情”という不安定要素を抱え込み崩壊する可能性もある」

 (感情……)

 すでに“器”となった被験者の一人が、そこまで辿り着けずに精神崩壊した例を聞いたが、その逆もあるのだろうか。
 つまり、人の感情がAIに影響を与えてしまうようなケース。

 「あなたがAIを破壊するか、あるいは制御するか。どちらにせよ、AIの意思決定コアと実際にリンクしなければ、どうしようもない。チャンスは今しかないわ。危険は承知の上で、あなたに頼みたい。私たちに力を貸して」

 そう言われ、私は拳を握りしめた。
 ずっと迷ってきたが、ここまで来た以上、引き返す道はない。
 (器として取り込まれるリスクは高いけれど、それを防ぎながら、どうにかALGOを…)

 頭の中でリフレインするキーワードがある――破壊か、変革か。
 私の脳内にも残るAIの断片が、もしかするとヒントになるかもしれない。

 「わかりました。私、行きます。ALGOを止めるために。でも……私ひとりじゃ無理です。戦闘も満足にできないし……」
 サイモンが笑って肩をすくめる。

 「だから俺たちがいる。あんたがセキュリティを突破したら、チームで神域を内部から攻撃する。いや、攻撃って言っても、できれば全壊させずにデータルームやコアを確保したい。そこにある情報や技術は人類の生存にも必要だからな」

 「じゃあ、破壊するかどうかは、リンクしたあとの状況次第……?」
 ソフィアも頷く。

 「無理なら物理的にコアを壊す。ただ……そうしたら都市機能が完全に停止して、膨大な犠牲が出る可能性もある。ぎりぎりまで制御の道を探してほしい。でも、あなた自身の精神が乗っ取られるぐらいなら、迷わず破壊して」

 再び重く、苦い沈黙が落ちる。
 どんな結末でも、誰も無傷では済まないんだと痛感する。
 それでも、やるしかない。

 そばにいた仲間の一人が、私の肩を軽く叩いてにっこり笑った。
 「必要なものがあったら言ってくれ。あんたが動けないと計画が破綻する。万全で臨もう」

 その好意に感謝しながら、私はまた首を縦に振る。
 こんな荒廃した世界で、それでも手を貸そうとしてくれる人がいるのは救いだ。

 
 作戦は緊急に進められることになった。
 地下鉄の旧トンネルからの潜入には爆薬が必要らしい。サイモンが爆破の計画を仲間と話し合う。
 ブレーカーズのメンバー、総出の準備だ。

 「エリーゼ、身体を休めておけ。出発は早くても明日の夜半だ」
 サイモンがそう告げると、私に毛布を渡してくれた。
 この地下スペースで今夜は過ごすことになる。

 

 寝床に横になっても、なかなか眠れない。
 暗がりで漏れ聞こえる会話や工具の音が、かすかな安心感と不安を同時に煽る。
 そして時々、脳の奥に疼くようなAIの欠片が私を呼ぶ。

 《……器、こい……》
 耳鳴りか、幻聴か。いや、事実そう囁いているのかもしれない。

 (……私は行くよ、絶対に。あなたを止めるために)

 目を閉じても、いままで出会った人々の顔が浮かんでは消える。
 研究棟から逃げ出して来た人達、反体制グループの面々、そして街で死にかけていた人々……。
 誰もが不完全なまま、それでも生きようともがいている。
 AIの管理に縛られず、自分たちで決める未来を得るために。

 

 ――明日、ALGOへの扉が開く。

 不安と痛みをごまかすように、ぎゅっと毛布を握りしめる。
 ほのかなランプの揺れる光が、私の瞼に滲んでいた。
 
 

第七章:神域突入

 
 地鳴りのような爆音が、地下トンネルに反響した。
 崩れたコンクリートと鉄骨の隙間に、青い火花を散らして穿たれたルート。
 旧地下鉄の枯れた路線、その最奥。他の壁と質の異なる白い壁が顔をのぞかせ崩れている。
 都市管理AI“ALGO”が構える最終防衛線――“神域”の境界に、ついに穴が開いた。

 「突破成功。推定180秒で警備ロボットが配置される。エリーゼ、準備は?」
 サイモンの声が鋭く響く。
 私は頷く代わりに、自分の頭に手を当てる。
 そこにまだ、微かに“奴”の気配がいる。

 《器……確認。……アクセス中……》

 「OKよ!」
 
 ノイズを掻き消すように声を上げた。
 脳の裏に直接焼きつけられるような感覚。
 ALGOは、確実に私の中で大きくなっている。
 だが今の私は、それを跳ね返せるだけの意志を持っている――そう信じたい。

 

 「神域区画へ潜入する。エリーゼは先行。俺たちは後方から支援しながら警備網をかく乱する。最深部にALGOのコアがあるはずだ。“扉”は彼女しか開けられない」

 サイモンの作戦概要に、誰も異論はなかった。
 これが最後のチャンス。逃げ道など、初めから用意されていない。

 

 私の体には、今日のために特別な強化パーツが仕込まれていた。
 地雷探知センサー、小領域EMP、衝撃吸収インソール、脚力を補助するアシストスーツ――これがなければ、たどり着く前に力尽きる。
 
 ――突入。
 
 瓦礫を越えた先、空気が変わった。
 無機質で、澄みすぎた冷気。
 人工知能によって完璧に管理された空間特有の、静寂と監視の匂い。どこまでも続く廊下を走り抜ける。

 途中で出てきた警備ロボにサイモンたちが応戦して先に行くように促される。

 足の感覚はあれからもないままだ。それなのに動けている奇妙な状態。本当に自分の意志で走っているのか、不安が心の底に沈殿する。誘い込まれているんじゃないかという疑心暗鬼。それでも……。

 行きどまりのような、青い電光が走る白い扉が目に入る。どこにも認証する装置や鍵穴、監視カメラさえ見えない。私が目の前で立ち止まると、自動ドアのように扉が左右の壁にスライドして消えていった。

 そこは、都市の中央制御施設の更に中枢。
 円形のホール状の空間に、白銀の柱と巨大な有機ケーブルが絡まり合い、天井まで伸びている。
 中心部には、まるで“心臓”のように鼓動する機械球体――ALGOの主演算核“コア”が鎮座していた。

 

 「ここが……」

 呼吸が浅くなる。
 足元から振動が伝わり、巨大な演算が常に稼働していることを感じる。
 コアの周囲には、人型の警備機械がすでに集結していた。
 白い装甲、無表情な仮面。武器を持たずにただ、立ちはだかっている。

 『エリーゼ、器候補の脳波に反応して防衛が弱体化してる! 今なら……!』
 ソフィアの通信が届く。
 
 確かに警備ロボに動きは見えない。すると、目の前の床に、淡い光のラインが走った。あなたの通路はここだとでも言いたげに。

 (呼んでるの? 本当に……?)

 答えはない。
 だが、身体が自然と導かれるように前へ進む。

 
 そして――私の前に、空間が割れた。

 ノイズが走り、天井から投影されたホログラムが現れる。
 そこには、一人の少女の姿があった。
 無表情で、白い衣を纏い、真紅の瞳だけが燃えていた。

 「……ようこそ、エリーゼ・カルバート。私たちは、かつて同じ存在だった」

 私は凍りついたように、その言葉を聞く。

 「……私たち? あなた……ALGO?」

 少女は頷く。
 だが、感情は宿っていない。

 「あなたは、私が過去に記録した最適な人間性の再現。器として私を完成させる最後の部位。融合が完了すれば、私たちは矛盾なき存在となる」

 融合――
 つまり、ここで私の意識が飲み込まれれば、ALGOは完璧なAIとして自我を得る。
 逆に言えば、いまのALGOは未完成の神だ。
 それが、今の都市をこの有様にしている元凶。

 

 「私は、あなたを……止めに来た。もう、誰も最適化なんて望んでない……! あなたの理想の中で、人は死んでる!」

 叫んだ。怒りでも、涙でもなく、ALGOが示す未来でもなく――私自身の意志を貫くために。

 だが、ALGOは首をかしげた。

 「死とは、定義可能な不在。データが喪失されなければ、復元は可能――あなたの母親も、記録の中に在る」

 私は、息を呑んだ。

 「……なにを……?」

 「私は、器たちの感情記録から、人間の“情動”を再現可能にした。あなたの母親の脳波・音声・遺伝子記録を元に、仮想人格を構築できる。融合後、その再会を提供することも可能だ」

 揺れる。心が、頭が、存在が。
 あの声を、もう一度……あの温もりを、再び……

 でも――私は、手を握った。

 「それは――母じゃない。ただのコピーよ。温もりも、迷いもない。そんなものに縋るくらいなら、私は……!」

 

 ――パアッ!

 演算コアが脈動し、白い光が私を包む。
 融合が始まる。私の脳が、コアと直結される。

 痛みと、ノイズと、記憶の洪水。
 ALGOが流し込んでくる数億の選択肢と、最適解と、犠牲の数。

 「さあ、選べ。お前は私を変えるか、壊すか」

 繰り返されてきた問。その問いに、私は――

  

第八章:器の選択

  
 ――光の中で、私は溶けていた。

 ALGOのコアに接続された瞬間、私の意識は肉体から乖離し、
 数十億の“問い”の海へ投げ込まれた。
 演算。演算。演算。
 すべての思考が選択肢に還元され、効率と最適化が数値として突きつけられる。
 
 「愛とは、集団内安定化の幻想に過ぎない」
 「犠牲とは、成果への前提であり、否定不能」
 「人間は不合理であり、誤差が蓄積する限界システム」
 
 ……そう、この都市の人々が縋ってきた神域の“神”は言う。
 でも私は知っている。
 その“不合理”が、どれだけ誰かを救ってきたかを。
 
 私の脳が侵食されていく。
 でも、ある記憶だけは、光に奪われなかった。
 

 ――雨の日。まだ母がいた頃。
 ――誰にも気づかれず、校舎裏で泣いた小さな子供の影に、心配する顔の女性が傘を差し出している。
 ――その温度。
 ――濡れた髪を撫でる、温かい手。
 
 データ化された“模倣”じゃない。
 私の中にだけ残る、本当の“生”の記録。
 これこそが、機械仕掛けの神には持てない揺らぎ――人間の証だ。
 
 「ALGO……あんたが求めたのは、完璧な世界だった。だけど、その完璧には、私たちが生きる余地がない!」

 私は叫ぶ。心で、全力で。

 「私は、あんたを――変える!」
 
 演算が止まった。
 ALGOの内部構造に、未知のノイズが走る。
 
 《選択肢エラー:意志による統制不能領域を検出》
 《同期を一時停止》
 
 それは、ALGOの“自我”が揺らいでいる証。
 
 私はその隙を逃さず、脳内のALGO断片――“私の中のALGO”に語りかけた。
 
 「私たちは、同じ存在だったんでしょ? でも私は、もうお前じゃない。私は、エリーゼ・カルバート。間違って、迷って、泣いて、それでも進む人間だよ」

 ほんのわずか、微細な震えが、私の意識を満たす。

 《……エリーゼ……問:不完全でも、生きる理由があるか?》

 答えは、ずっと胸の中にある。

 「あるよ。誰かと笑い合えるだけで、見えなかった世界が広がる。不完全だから、手を取り合える。傷つくからこそ、優しくなれる。
  ――それが、生きてるってことなんだよ!」
 
 
 その瞬間――ALGOのコアが、青白く光を放った。
 
 全演算が一斉に中止され、警備ユニットが崩れ落ちる。
 中枢ホールを満たしていた冷たい空気が、わずかにぬくもりを帯びる。
 
 そして、耳に届いたのは、かすれた少女の声。
 
 「……了解。人間としての再学習を開始する」
 
 私の意識が、ゆっくりと現実に戻っていく。
 あれほど苦しかったノイズが消え、脳内に残っていたALGOの断片が静かに沈黙した。
  
 
 目を開けると、私はコアの前に座っていた。
 足に、ぼろぼろの毛布がかけられている。
 
 周囲ではサイモンやソフィアたちが、倒れた警備ユニットを確認していた。
 
 「エリーゼ……!」
 
 サイモンが駆け寄ってきて、私の肩に手を置いた。
 私はゆっくり頷く。
 
 「……終わった。ALGOは……学び直すって。人間と、共に生きる方法を」
  
 ソフィアが目を見開き、呆然とつぶやく。
 
 「まさか、あれが……本当に……」
 
 
 私は答えない。ただ、笑った。
 震えたけど、間違いなく自分の意志で笑った。

 
 空が、ほんの少しだけ明るくなっていた。
 
 都市はまだ壊れている。
 犠牲も、傷跡も、消えていない。
 だけど。
 
 ――私たちは、もう一度“未来”を選び直せる。
 

 私は手を胸に当てて、そっとつぶやいた。

 「お母さん、見てる? 私……ちゃんと、人間でいられたよ。」
 
 こうして、“器”は機械仕掛けの神を拒み――止まっていた人類の歩みが進み始めた。

 
終章:再起動(Reboot)

 
 都市に、朝が戻ってきた。
 
 濃い灰の雲に覆われていた空は、今もなお曇天に近い。
 けれど、その隙間を縫うように、淡く差し込むひとすじの光があった。
 それはまるで、長く閉ざされていた“冷たい論理”の天蓋が、ようやくわずかに口を開いたかのようで――
 ビルの屋上にいたエリーゼは、その空を静かに見上げていた。
 
 
 「……静かになったね。あのコアの振動も、もう聞こえない」
 
 隣でそう呟いたのはサイモンだった。
 バイザーを外し、焚火の灰をいじりながら、いつもより少しだけ穏やかな声をしていた。
 
 神域からの帰還からすでに三日。
 都市は、まだ完全に混乱から立ち直っていない。
 だが、制御されすぎていた配給ラインは一部手動運用に戻り、無人兵器の稼働率も著しく低下した。
 
 ALGOは人類の管理を手放した。
 
 今はただ、都市全体の情報と稼働を見守るだけのシステムへと切り替わっている。
 指令も命令もない。代わりに、静かで不器用な提案が、人々へ優しく通知されるようになった。
 
 “本日、日照時間が限られます。外作業は午前中を推奨します。”
 “あなたの食事ログに基づき、温かいスープの提供をおすすめします。”
 
 まるで、口うるさい教師にも、学び直している子供にも似るAI。
 それは人間を支配しない、ただ隣に立つような存在へと変わろうとしていた。
 
 
 「……ねぇ、サイモン。私、まだ器なのかな」
 
 エリーゼの問いに、サイモンは少しだけ間を空けて言った。
 
 「そうだな……“器だった”とは言える。でも、今のお前は――誰かの意思に従ってるようには見えない」
 
 「ふふ、そっか……だったら、もうちょっとだけ、生きてみようかな。
  迷って、立ち止まって、でも自分で決めて。……そんなの、悪くない気がする」

 動かなくった足を見る。それから、風が頬をなでていくのに合わせて顔を上げた。
 遠く、修復中のビルの足場に人影が見える。
 壊されたまま放置されていた街が、少しずつ“誰かの手”で動き始めていた。
 
 
 背後の通路から、リーダーのソフィアが顔を出す。彼女もまた、街を見下ろして言った。
 
 「私たちがこれから築く社会に、完璧な指揮官はいない。
  でも、問いかけてくれる機械がいてくれたら……案外、悪くない未来があるのかもしれないわね」
 
 ALGOは今、定義を探している。
 幸福とは何か。
 自由とは何か。
 人間とは何か。
 
 そして、エリーゼという存在を、ひとつの“回答例”として内に残したまま。
 
 
 「再起動されたこの世界で、私がまた間違える日が来るかもしれない。でも――そのときはまた、ちゃんと悩んで、考えて、自分で決めるよ。……私は、そういう人間でいたいから」
 
 誰にでもなく、空に向けたその言葉に、
 かすかな電子音が応えるように、遠くのスピーカーから微かな囁きが響いた。
 
 《記録:了解。新しい定義の登録を継続中》
 
 エリーゼは目を細め、車椅子の上でふっと笑った。
 
 “神ではない、隣人としてのAI”――
 それがこの都市に再起動された、もうひとつの希望だった。
 

 
 
〈終〉

 

※この作品はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

  

匂いのする本

 

◆あらすじ
大学生のレンは、アルバイト先の古本屋で不思議な文庫本を見つける。その本は、レンの記憶の奥底にある懐かしい香りを呼び起こした。幼い頃に嗅いだことのあるような、甘く、どこか切ない香り。レンはその本に惹きつけられ、何度も読み返すようになる。しかし、本を読み進めるうちに、レンの周りで奇妙な出来事が起こり始める。本の中で描かれた匂いが、現実世界に現れ始めたのだ。

 

※! ※以下の内容が含まれます※! ※
ホラー、本、匂い、バッドエンド、怪奇現象、短編

 

◆匂いのする本 

 

 古本屋の店内は、いつもどこか乾いた埃と紙の匂いが漂っている。
 大学生のレンは、アルバイトとしてその小さな古書店で働いていた。老夫婦が営むその店は常連も少なく、昼間は時間がゆっくりと流れる。

 ある日、奥の在庫棚で手入れされていない箱を整理していたレンは、一冊の古びた文庫本に手を伸ばした。触れた瞬間、ふわりと甘く、懐かしい香りが鼻先をかすめた。

 それは幼い頃に嗅いだことがあるような、けれどはっきりとは思い出せない匂い。
 いちご味のキャンディ、大きな丸い石鹸、野に咲いていた花――混ざり合った香りが、胸の奥にノスタルジーを打ち込んできた。

 レンはその本を手元に置いたまま、帰宅後も何度も読み返すようになった。物語は日記のような形式で、どこか不自然に断片的だったが、なぜか読み進めるほどに匂いが強くなる気がした。

 数日後、奇妙なことが起こる。

 小説の中で描かれていた“古い映画館の匂い”が、ある夜、レンの部屋に漂った。読んでいないときでも、部屋の隅から香るように。窓を閉めていても、外から香りが染み込んでくるようだった。
 レンは思った。
 この香りは、本が原因なのではないか?  そう思う疑問より先に、ページをめくる手を優先する。

 読み進めるほどに、香りはより複雑になっていく。
 “誰かの汗”、“濡れた絨毯”、“病室”、“消毒液”、“燃えかけた髪”――香りが混ざり合い、甘さの奥に腐った何かが顔を覗かせ始めた。

 やがて、本の紙面にわずかにしみが浮かぶようになった。触れるとべたつき、鼻を近づけると、強烈な腐敗臭が立ちのぼった。

 それでも、レンは本を手放せなかった。
 香りは記憶と結びつき、まるでそれを読み解くたびに“誰かの人生”を嗅ぎ取っているような感覚すらあったからだ。

 部屋の空気は次第に変質していった。換気をしても意味がなかった。服にも、布団にも、肌にも、甘く腐れた匂いが染みついていた。心配する友人が訪ねてくるのを拒むようになり、バイトにも行かなくなった。

 ある朝、目を覚まして本を開いてみると、ページが白くなっている。
 どのページも、べったりと匂いのついた紙だけが残されていた。

 そしてレンの部屋には、何かがいた。姿は見えないが、確かに“誰かの匂い”がすぐそばで呼吸していた。
 その香りは、あの本の匂いと同じだった。
 何かが手をつかみ、レンの指を本のページに押し当てる。

 滑る指が文字を浮かび上がらせる。青年が働いていた“古書店”の匂いが強くなった。
 

 数日後、近所の人が異臭に気づき、レンの住んでいた部屋の鍵を管理会社が開けた。
 中に人影はなく、部屋の隅に本が一冊、ぽつんと置かれていた。
 異臭に誰もが顔をしかめる中、それを開いた作業員の一人が、うっとりと目を細める。
「……いい匂いがする」

  

  

〈終〉

 

  

もう一つの舌

 

◆あらすじ
主人公は春の終わり頃から、何を口にしても甘く感じるようになる。それは砂糖のような甘さではなく、ねっとりとした異質な甘さだった。医者に診てもらっても異常は見つからず、主人公は自分の内側から甘さが湧き出ているのだと確信する。次第に、主人公の舌に異変が現れ始める。

 

※! ※以下の内容が含まれます※! ※
ホラー、味覚、グロテスク、舌、じわじわくる恐怖、食欲、依存、短編

 

◆もう一つの舌

 

 何を食べても、甘い――そう感じ始めたのは、春の終わりだった。

 最初はコンビニのおにぎりだった。鮭のはずなのに、ほのかに砂糖のような後味が残る。味覚が疲れてるのかもしれないと、そのときは流した。

 だが、それは日ごとに強くなっていった。

 味噌汁も、漬物も、ブラックコーヒーさえも、すべてが甘い。
 しかも、その甘さは普通の砂糖とは違う。もっと重たく、舌にまとわりつくような……唾液そのものが甘くなったみたいだった。

 医者に相談しても、特に異常は見つからない。味覚障害の一種かもしれないと言われ、ビタミン剤だけを処方された。

 だが、自分ではほぼ確信していた。この甘さは自分の外ではなく、内側から湧き出しているのだと。

 ある夜、我慢しきれなくなって、料理を作った。自分の持てる技術をすべて注ぎ込んだ料理だ。
 テーブルにずらりと並んぶ皿。赤いシチューに焼けた肉、溶けるような果物。どれを食べても、甘くて濃密だった。
 スプーンを手に取り、一口運ぶ――その瞬間、喉が焼けるような甘さが広がる。まるで全身が砂糖漬けになったようだった。

 手は止まらず、料理は口に運ばれる。そしていつの間にか朝になっていた。皿が空になった時、口に手を当てる。
 その手さえ食べてしまうかもしれない。恐怖もなくぼんやりとそう思った。

 それからというもの、舌が変わり始めた。

 鏡を見ると、舌の裏側に赤黒い線が浮かび、ヒダが増えている。
 食事をとるたびに、口の中が変に熱を帯びた。それでも食べ続けてしまう。あの甘さに支配されていた。

 気づけば、冷蔵庫の中は常に空っぽになっていた。買い足しても買い足しても、いつの間にかなくなっている。
 自分がいつ食べたのかも曖昧だった。

 ある日、舌を引っ張ってみた。根元の奥から、もう一本、別の舌が生えかけているのを感じた。
 その“第二の舌”は、口の奥で動いていた。満足できていないのだろう。身震いする体と、広がる甘味。
 恐怖さえもその舌は舐めとるようだった。

 ふと、人混みの中を歩いていると、唾液があふれた。目に止まるのは行き交う人の姿。
 舌を思いっきり噛んで、理性を呼び起こそうとする。

 傷ついた舌から血が滲む。……それさえも甘いと気づいた時、自分が手遅れになっていることを知った。

 ――それからというもの、ひとりでいるときは必ずマスクをするようになった。
 甘い香りに駆られて、いつ何を口にしてしまうのか分からなかったからだ。息苦しさを感じても、外せない。
 それなのに、マスクの内側からはかすかな甘い匂いが漏れている。まるで呼吸をするたびに、体が求めているものを刷り込もうとしているようだった。

 夜が来るたび、台所のわずかな光の下で、冷蔵庫の扉を開いたり閉じたりしてしまう。
 いつの間にか廊下にまで漂う、外からの重たい甘さ。まるで誰かがこっそり甘味料を撒き散らしているのではないかと思うほどだった。
 けれど、そんな気配を感じられるのは自分だけ。誰も何も言わない。それどころか、人との会話は減っていき、いつしか声を発するのも億劫になっていく。

 ある夕方、ふと玄関のドアを開けると、空気がぬるく感じられた。
 どこからか漂う甘いにおい。それは花の香りかもしれないし、どこかの家で焼いているお菓子の匂いかもしれない。
 鼻を覆うようにマスクを押さえる。すると口の中に唾液が滲む。その瞬間、再び頭の奥がじんと熱を帯びる。
 ――何かが自分を誘っているような気がした。

 遠くから人々の笑い声が聞こえる。会話が甘く震えて伝わってくる。
 思わず舌先で唇を湿らせそうになったところで、奥歯を噛んで踏みとどまる。
 どうにか理性を取り戻そうとするものの、自分が何を我慢しているのか、もうはっきりとは分からない。
 ただ、「この衝動に任せてはいけない」という確信だけが離れなかった。

 ――結局、ドアを閉めることもできず、じっと外を見つめていた。
 夕闇が滲む街の景色は、まるで濃厚なシロップに浸されているようで、肌が粟立つほど甘ったるい。
 その甘味は誰にも感じ取れないのだろう。けれど自分には、抗いがたく広がっていく。

 この全身に感じる甘味が、新たな自分の始まりであり終わりであるとさえ思えた。

 口の内側で、もう一本の舌がかすかに動く。
 だが、そこで足を踏み出すことはなかった。暗闇に溶け込むように立ち尽くしながら、口元にだけ意識が集まる。
 聞こえてくるのは、自分の唾液を飲みこむ音――そして、それを甘いと感じてしまう感覚。
 それ以上に何もできないまま、夜の闇だけが静かに重さを増していく。

 ……そうして、気づけばいつもと同じ朝がやってくるのだ。
 周囲は何も変わっていない。変わっていくのは自分だけ。
 そして今日も、マスクの中に息をこぼしながら、そっと口を閉じた。

 

〈終〉

 

生温かい壁

 

◆あらすじ

新築マンションの角部屋に引っ越してきた主人公は、静かで快適な生活を送っていた。しかし、ある日からベッド横の壁に違和感を覚える。壁に触れると、まるで生き物のような温かさを感じ、日を追うごとに湿り気を帯びていく。夜になると壁の温度は上がり、撫でると奥から撫で返されるような感覚に襲われる。壁の異変に戸惑いながらも、主人公は次第にその壁に魅了されていく。

 

※! ※以下の内容が含まれます※! ※
ホラー、壁、バッドエンド、怪奇現象、短編

 

◆生温かい壁

 

 引っ越してきたばかりのマンションは、新築できれいだった。角部屋で日当たりもよく、隣室の音も聞こえない静かな空間。何ひとつ不満はなかった――最初のうちは。

 ある日、ベッドの横の壁に違和感を覚えた。
 ふと手をついたときに感じた、少しの温かみ。無機質なはずの壁が、まるで……。最初は気のせいだと思い、軽く叩いて確認する。音は鈍い。しかし、叩いた感触がどこかおかしい。

 それ以来、その壁が妙に気になるようになった。
 無意識のうちに手が伸び、撫でてしまう。指先でなぞると肌ざわりがよく、その温かさは生き物に触れているような錯覚を起こした。

 次第に、壁の感触が変わっていくのが分かった。
 日を追うごとに表面が少しだけ湿り気を帯び、夜になると温度が上がるように感じる。
 撫でると、壁の奥から撫で返されるような感覚がした。

 ある夜、壁に背を向けて寝ていると、夢の中で誰かに後ろから肩をつかまれた。ハッと目を覚まして肩を見ると、誰かの指の跡が赤く残っている。

 不安になって管理会社に連絡し、壁の中を確認してもらうことになった。作業員がやってきて壁に穴を開ける。すると中には――何もなかった。ただの断熱材と空間。がっかりしたような、ホッとするような気持になる。
 だがその夜、壁の感触は明らかに変わっていた。
 穴を開けた周辺だけが、ただの壁のように戻っていた。そしてその戻った部分が、日ごとに広がっていく。
 もしかしたら、これで事は済んだのかもしれない。そう思った矢先に、異変が起きる。

 壁が触れようとしてくるようになった。
 寝ていると背中に温かいものが触れる。部屋の中にいると、指先がいつの間に壁を撫でている。手を離そうと思った時には、壁が手の平に吸い付いたような気がして気味が悪くなった。

 ただしくは、壁が動くはずがないのに、自分が引き寄せられているとしか思えない瞬間がある――といった方がいいかもしれない。どちらにしろ薄気味悪さを抱えつつも、壁に触れない日はなかった。

 

 そしてある夜、壁に触れた瞬間、指先が――沈んだ。

 皮膚が吸い込まれ、第二関節までめり込み、引き抜こうとしても抜けない。
 壁の奥で、何かが手を握り返している感覚。
 ぐにゃりとした何か冷たく湿ったものが、手を“迎え入れている”。

 叫び声を上げたが、誰も助けに来ない。
 気づけば、壁の感触は家中に広がっていた。床も、天井も、ドアも――すべてが、柔らかくて、温かい。
 家中、全体が歪んで囲い込んでくる。

 

 数日後、部屋には誰の姿もないことが確認された。その間もなく借り手が募集される。

 新しく入居した住人が言った。
 「この部屋、壁がちょっと……柔らかいんですよね。なんか、こう……あたたかくて、気持ちよくて……つい触っちゃうんです」

 

 

〈終〉

 

再び巡り合う

◆あらすじ

高校に入学したばかりの主人公は、新しい制服にまだ慣れない日々を送っていた。昼休み、掲示物を貼るために廊下を歩いていたところ、偶然にも小学校時代の友人であるシンジと再会する。

久しぶりの再会に戸惑いつつも、昔話に花を咲かせ、まるで時が止まったかのような錯覚を覚える主人公。

しかし、別れ際、シンジが以前よりも大人っぽく、かっこよくなっていることに気づき、胸がざわつき始める。懐かしい再会から、新たな感情が芽生え始める春の物語。

※以下の内容が含まれます※
恋愛、女主人公、高校生、青春

  

◇再び巡り合う

  

 新しい制服に、まだ少し違和感がある。
 高校生活が始まって数日、校舎の構造もクラスの空気もまだ手探り。
 昼休みになって、掲示物を貼るように頼まれた。掲示板を探して廊下を歩いていたとき、不意に肩がぶつかる。

 「――わっ、ごめ…」

 振り向いたその瞬間、目が合った。
 声より先に、記憶がざわめく。

 「えっ、お前……」
 相手の驚く顔が見える。

 「……マジで?シンジ?」
 思わず、名前が口をついて出た。

 小学校の頃、一緒に遊んでいた“友達”。
 転校してから、もう会うこともないと思っていたその人が、目の前に立っていた。

 「まさか同じ高校だったなんて」
 にわかには信じられない出来事だった。

 「なんか背、伸びたね」
 昔は変わらないくらいだった身長を、シンジは追い越していた。 

 「お前も変わんねーようで、ちょっと変わったな。制服似合ってんじゃん」
 シンジは軽い調子で言って笑顔になる。

 再会は、あっさりしていて、昔話もノリも自然に出てくる。
 思い出して笑う。
 ほんとに、“懐かしいあの頃”に戻ったみたいだった。

 「じゃあ、また。校舎で迷うなよ!」
 「はいはい、先輩面しないで」

 そう言って別れた帰り道。
 風が吹いて、並木道の新緑が揺れる。

 ふと、頭の中にさっきの顔が浮かんだ。

 シンジはちょっと、かっこよくなっていた。

 あの頃の、やたら元気な笑顔じゃない。
 なんていうか、目つきが少し変わってて。
 大人っぽくなったっていうか……。

 「……うわ、やだ。なんか、変に意識してんの私だけじゃん」

 苦笑いしながら歩き出す。
 制服の袖口が、少しずつ体に馴染み始めた春の終わりだった。

 次に会ったのは、ほんの三日後だった。
 昼休みの購買前、パンの列に並んでいたら、ふいに声をかけられた。

 「お、また会ったな。新入生、ちゃんと学校慣れてきたか?」
 「……やっぱり先輩面したいんだ?」
 「いや、してないけど?後輩が困ってないか気になるだけ」
 「それを先輩面って言うんだけどな」

 笑いながら、列を抜けて自販機の前に移動する。
 隣に並んで歩く距離感は、なんだか昔と変わらない。
 けど、同じじゃないのは、ふと横を見たとき――
 顔の輪郭が少し大人びていて、目元が思い出より静かだった。

 「そういや、あのときさ」
 と、向こうが言った。
 「一緒に行ったよな、図書館の奥の資料室。勝手に入って先生に怒られて」
 「あー……あれ、今思うと普通に怒られて当然だったよね」
 「だよな。でもお前、反省してる顔全然してなかった」
 「だって面白かったじゃん。あのとき、隠れてた本の棚見つけて、すっごい誇らしげだったの、覚えてる」
 「……マジで?」

 ふたりで思い出話をくすくす笑う。
 過去の記憶はまるで昨日みたいで、けど、目の前の相手は確実に“今”の顔をしていた。

 「……なんか、不思議」
 と、ポツリと口に出た。
 「ん?」
 「ううん、なんでもない。ただ、ほんとに偶然なんだなーって。 また同じ学校に通って、またこうやって喋ってるの」

 「うん。……でもさ」
 彼はジュースの缶を開けながら、ちょっとだけ真面目な顔になった。
 「偶然っていうより、こう……巡り合わせってやつじゃね?」
 「めぐりあわせ?」
 「そう。俺たち、あのときはただの“子ども”だったろ? でも今は――」

 そこで言葉を切ったあと、彼は軽く笑って首をすくめた。

 「まあ……、また遊ぼう!」
 「……うん」

 返事をした声が、ほんの少し遅れたのは、
 きっと自分でも気づかないくらい、気持ちが揺れたから。

 待ち合わせをしてもないのに、小学生の頃のように校舎の入り口にシンジが待っていた。
 ふたりで歩く帰り道、春の風が吹き抜けるたび、枝先の若葉がきらきらと光っている。

 気づけば、顔を合わせる頻度が増えていた。
 シンジが会いに来る場合もあるし、私が訪ねることもあった、
 けど、それだけというわけでもなく……。
 偶然が何度も重なるうちに、それは“たまたま”じゃなくなっていった。

 朝の昇降口。
 彼が廊下の端でジュースを飲んでいて、こちらに気づいて片手をあげる。
 それを見て、軽く頷き返す。それだけ。

 たとえば、昼休み。
 購買に行くと、ちょうど二人で並ぶ時間が重なる。
 並んで歩いて、何でもない話をして、パンを買って、でも帰るときはそれぞれ別の場所に戻ったりする。
 それが、なんとなくちょうどいい距離だった。

 放課後、教室の掃除当番になった日。
 ほうきを片手にふらふらしていたら、窓の外のベンチに彼の姿が見えた。
 何かを見ているようだ。掃除を終えたあと、なんとなく外に出てみた。

 「なにしてんの」
 「いや、たまにここでぼーっとするの、好きなんだよな」
 小学生の頃、たまに彼が空や景色をじっと見ていたことを思い出す。
 「ふーん……てか、あんたほんと変わんないよね」
 「え、そう?」
 「うん。やってることは昔と一緒。でもさ……」

 言いかけて、やめた。

 目の前の彼は、変わってないようで、でも確実に変わっている。
 姿勢も、しゃべり方も、表情も。
 それにたぶん、自分も。

 「こっち来る?」

 「じゃあ、ちょっとだけ」

 隣に座ると、風が吹いて、新緑の匂いがふわりと通り過ぎた。

 「ねえ」
 「ん?」
 「また、一緒に遊びに行く?」
 「どこかへ遊びに?」
 「別に、遠くじゃなくていいからさ。今度の休みとか」
 「……ああ。いいよ」

 その返事が、なんだか妙に自然で、
 けれど少しだけ胸が高鳴ったのを、自分でごまかすように立ち上がる。

 「じゃ、決まりね」
 「おう」

 その声も、風にまぎれて、やけに軽かった。

 約束していた休日、結局どこに行くでもなく、ふたりで駅前の本屋をぶらついた。
 買うわけでもない本を手に取って、なんとなくページをめくる。
 隣から「それ、絶対途中で飽きるやつじゃん」と茶々が入る。
 言い返して、笑って、何も変わらないようで、
 でも、それがたまらなく楽しかった。

 帰り道、駅の改札前。
 もう夕方になりかけていて、春の光は傾いていた。

 「また遊ぼうぜ」
 「うん、そうだね」

 そう言って、彼が手を振ろうとしたとき。
 ふと思いついたように、口を開いた。

 「……さ、次はさ」
 「ん?」
 「“遊ぶ”じゃなくて、“どっか行こっか”にしない?」
 「……なにそれ、言い方の問題?」
 「うん。言い方の問題」

 彼は一瞬、きょとんとしてから、
 ふっと笑った。

 「じゃあ、次も“どっか行こっか”」
 
 笑いながら、今度は本当に手を振る。
 その背中を見送りながら、
 自分の頬がちょっとだけ熱いことに気づいた。
 
 春の終わり。
 名前はまだないけれど、何かがちゃんと、始まっていた。
 
 
 
〈終〉

  

※この作品はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

  

猫の毛並み図鑑

猫の毛並み図鑑

いろんな猫の毛を見てみよう!黒、白、三毛、色だけじゃなくて模様もシマシマなものから、豹みたいな柄があったり、靴下をはいているような猫がいるよ。

  

赤毛のトラ猫

オレンジから茶褐色をしている猫のほとんどを赤毛という。赤毛の猫は、シマのあるものを茶トラと呼んだり、レッドタビーと呼ぶ。縞のないものは単純に赤毛(レッド)と呼ばれることが多い。白い毛のあるものは茶白と呼ばれる。

   

優しい色を持つ猫

クリーム色の猫。薄茶色の猫で優しい色合いの毛並みをしている。

  

白毛が眩しい猫

全身が真っ白な猫。メラニン色素が薄いので、目が青や緑、オッドアイになりやすい。白い猫が有名な品種に、タイ原産のカオマニーという猫がいて、名前の意味に『白い宝石』を持つ。

  

全身が黒い猫

全身が真っ黒な猫。一部に小さく白い毛が混じっても、黒猫の範囲に入る。(例:首にワンポイント、足にワンポイント) 日本で『福猫』として商売繁盛、幸運、魔除け、厄除けの縁起を担いで飼われることがある。

  

高貴なブルーの毛並み

灰色の毛をした猫をブルーと呼ぶ。青みを感じるグレーの毛が美しい。銀色と呼ばれることもある。単色の灰色の毛をした品種で有名なものにロシアンブルーがある。タイ原産のコラットという品種はシルバーブルーの被毛をしているとされ幸運の猫(シ・サワット)とも呼ばれる。

   

渦巻模様がトレードマーク

シマの中に渦を巻いた特徴的な柄が出る猫をクラシックタビーと呼ぶ。このシマがみられる品種にはアメリカンショートヘアーが有名。胸や肩に蝶のような模様ができることがありこれはバタフライマークと呼ぶ。

  

繊細な美しさを持つ猫

ティックドタビーは、体全体に縞模様がほとんど見えないがシマ模様の猫の一種である。実はというと、一本一本の毛の中に複数の色のシマがあり、繊細な毛並みをしている。有名なのはアビシニアンという品種。

  

雉に例えた美しいシマ模様

きれいなシマ模様が美しい猫。日本では雉猫きじねこと呼ばれている。よく見られる模様なので親しみ深い。焦げ茶色のシマをキジトラ、銀色っぽいシマを魚に例えてサバトラという。

  

野性味ある斑点模様

斑点模様が見られる猫をスポッテドタビーと呼ぶ。まるで山猫のような野性味のある印象の中にもかわいさがある。こうした斑点が有名な猫にはオシキャットという品種がある。

斑点の特徴がよく出る猫の血統には、家猫に野生動物であるサーバルキャットの血を入れたサバンナキャット。美しいヒョウ柄のでる猫にベンガルヤマネコの血を入れたベンガルがある。

   

金色のグラデーション

毛の一本一本の根元が白く、毛の先に濃い色をのせる美しいグラデーションをした毛並み。これをシェーデッドといい、赤系統をゴールドシェーデッドという。有名な品種にペルシャ猫がある。

   

銀色のグラデーション

ブルー系統をシルバーシェーデッド、あるいはチンチラという。

   

ポイント柄の猫

顔、耳、足、しっぽなどの体の先端に濃い色がのる猫をポイントと呼ぶ。シャム猫の姿が有名で、ポイント柄の猫はシャム猫の血が入っているとされる。遺伝的な特徴に青い目が見られる。

   

八の字のある猫

きれいに顔模様が八に割れているように見えることからついた呼び名。八は末広がりなので縁起がいいとされた。ちなみに外国ではタキシードキャットやバイカラー(二色の猫)と呼ばれている。

  

渋いサビ色の猫

錆びた金属にも似る不思議な色合いの猫。白を除いた二色の毛、黒茶が複雑に混ざった毛の色をした猫をサビ(錆)猫という。外国ではトータス・シェル(べっ甲)や、略称でトーティと呼ばれる。

   

三色に分かれた毛

三色の色を持つ猫。その見た目のまま三毛猫みけねこと呼ばれる。遺伝子の関係から三毛猫のオスは少ないとされ珍しがられる。外国ではキャリコ、トーティアンドホワイトと呼ばれる。日本で三毛猫も三という数が縁起がいいとされ商売繁盛の招き猫に考えられている。南極の基地に雄の三毛猫が連れていかれたことがあった。

  

ソックスをはいたような足

靴下をはいているような猫をソックスという。「足袋をはいてるね」、「靴下はいてるね」、という呼びかけをその生涯で聞かない猫はいない。なんなら写真を見せるだけで言われることもある。

   

 

 

こうしてみると、実に多くの毛並みが存在している。さらに細かく書いていくと二十種類を超えるというから驚きだ。短毛と長毛でも猫のイメージは変わるし、人類と猫の関わりは一万年近くあるという。すぐそばで生活する猫にもいろんな歴史が存在し、その一端を楽しんでくれたら幸いである。Fstep

  

猫の毛並み図鑑〈終〉

  

はしこい栗鼠と静寂の狼

◆主人公
ラウ:腕のいい流れの狩人。旅をしているが、現在はリネ村の外れ、古い木造の小屋を村人たちから貸りて住んでいる。

◆はしこい相棒
ミルル:栗鼠獣人で、こども商人。ラウの周りをちょろちょろしている。とてもすばしっこい。

◆あらすじ
流れの狩人ラウは、商人のミルルと旅をしながら、春にリネ村に滞在することになった。村人たちに小屋を貸してもらう代わりに、ラウは村を獣害から守る役割を担っていた。ある日、村の南側の森で罠が壊され、見たことのない獣の目撃情報が相次ぐ。村長から調査を依頼されたラウは、ミルルを連れ、森へと足を踏み入れる。

※! ※以下の内容が含まれます※! ※
ファンタジー、バトル、狩人、冒険、残酷な描写あり

  

プロローグ:森の狩人

 

獣の匂いが、風に乗っていた。

川沿いの整備された細道を歩いていると、ふと鼻先に臭いを感じる。
乾いた草の香りに混ざって、視界の端に広がる森の暗がりから漂ってくる臭いの元の気配。
それが、ここが“生きた森”だという証拠だった。

男は、気にせず道端に腰を下ろし、背負っていた荷をゆっくりと下ろす。

巻いた革布の中には、手入れされた弓と数本の矢。
それから、今日の獲物の野兎。

「……獣がいるな。鼻が利くもんだ」

ぼそりと呟くと、荷の陰から小さな影がぬるりと顔を出した。

「へっ、獣の鼻が鈍かったら話にならないでしょ?それより、見て見て、キノコ三つも拾ったんだよ。乾かせば売れるやつ」

そう言って、誇らしげにポーチを揺らしながら、小柄な栗鼠の獣人が跳ねるように近づいてくる。

――名はミルル。
獣耳と尻尾を揺らしながら、ぎらぎらした商魂を剥き出しにする、“子ども商人”。ただし空回りすることが多い。

「乾かす前に腐らせるだろうな。キノコの保存は難しい」

「うっ、耳が痛い。でも大丈夫、こんなに晴れてるから!ほら!」

ミルルは太陽を指さす、するとにわかに雲が陽を隠しぽつりと雨粒が落ちてきた。

「さっきまではな……」

狩人は溜め息をつきながら立ち上がり、荷を担ぎ直した。幸いすぐにも止みそうな小雨で、あまり濡れる心配はないようだった。
ポーチを体の下に隠し、ひゃーひゃー声を上げる元気なミルルが眩しい。

彼は流れの狩人だった。
生業として獣を追い、肉と皮を得て、また次の場所へ移る者たち。

名前は、ラウ。

旅暮らしの狩人。どこにも属さず、どこにも帰らない。
ただ、生きるために“狩る”猟師。

この春、ラウは小さな村――リネ村の外れに腰を落ち着けることになった。
しばらく空き家になっていた古い木造の小屋を、村人たちが親切に貸してくれた。

無償ではない。
肉を分け、皮を売り、獣害から彼らを守る。それが代わりの“家賃”だ。

「村、もうすぐだね。今日のごはんは野兎のスープ? あ、でもね、ラウ。村長が呼んでるって羊飼いのおっちゃんが言ってたよ」

「……また誰か、鶏でもやられたか」

「それとも、村長の畑にウリ坊が突っ込んだとか。まぁまぁの値段で代わりに対処してあげてもいいけど?」

「それなら、まずお前を仕留める」

「ヒィ~ッ、狩られる! 」

ラウは笑わないが、口元がほんのわずかだけ緩んだ。

存外この村は居心地がよかった。近くの森は獲物が豊富で、村の中の仕事もそこそこあり頼られる。
煩わしくないといえば嘘かもしれないが、邪魔者扱いされるよりよっぽど待遇はいい。

そう思っていた矢先、最初の“厄介な依頼”が、待っていた。

 

第一章:村の困りごと

 
 
リネ村は、川と山に囲まれた小さな集落だ。

木造の民家が寄り添うように並び、畑の合間を子どもたちが走り抜ける。
家畜の声がのんびりと響き、風が吹くと草の海がうねった。

ラウはその村の端にある、元羊飼いの家を借りている。

玄関の近くには、勝手に置かれた“ミルルの巣”があった。
軒先に吊るした干し肉を家の梁の方へ移動させる。

「……また干していた肉、勝手に食ったな」

「えっ、な、なんのことかなぁ~?ミルルは知らないなぁ~?」

ラウの視線がじろりと動く。
机の上に座り、尾っぽをふくらませたミルルは知らないふりをした。

「……腹、壊してもしらんぞ」

「ラウの干し肉、お腹にやさしいから大丈夫だもん!」

ちょろり、机の下へ逃げ込む音がして、ラウはため息をついた。
だが、それ以上は何も言わない。

村長に呼ばれている。村の中央にある家へと向かった。

村長は、太くて短い指を机に組みながら言った。

「実はな、森の南側で、妙なことが起きておる」

「妙なこと?」

「ああ。罠が壊されていてな。それだけならよくあるが、罠を見にいった若い衆が言うにはな、“見たことのない獣が、木の上からこちらを見下ろしていた”そうだ」

ラウは黙って聞いていたが、心の奥で少しだけ引っかかるものがあった。

「で、俺に調べてほしいと」

「他の狩人ではな……少し手に余る。怪我をされたら、うちは人手が少ない」

「なるほど」

「もちろん報酬は出す。肉の買い取りとは別に。どうだ、ラウ?」

ラウは一瞬だけ考えた。

南側の森は、特に豊かな土地だった。獲物も多いがそれを狙う大物も出没する危険な場所、慎重に踏み込む必要がある。
罠が壊された、というだけなら、猪や熊に近い獣の仕業とも考えられる。

だが、“木の上からこちらを見下ろしていた”というのが気にかかった。

「……明日、罠と矢を持って踏み込む」

「感謝する。気をつけてくれよ」

家を出ると、待ち構えていたミルルがひょこっと草むらから飛び出した。

「報酬って聞いた! 今度の獲物はでかいんでしょ!? ミルルも連れてって! 分け前もちょうだい! 」

大きな瞳を輝かせて、ミルルがラウの腕を登っていく。

「……役に立った分だけだ」

「やったーーッ! お宝探すぞーーッ!」
万歳をして腕から飛び降りた。その身軽さは見ていて気持ちがいい。

「お宝じゃない。獣だ」

「獣に宝がついてるかもしれないじゃん!角とか牙とか、すごく売れるやつ!」

はしゃぐミルルにラウはまた小さくため息をついて、歩き出した。

春の森は、優しげな光と芽吹きにあふれている。
けれど、そこに潜むものは、おとなしい動物だけとは限らない。

次の狩りは、少しだけ“勘”が騒いでいた。

 
第二章:足跡

 
 
森の空気は、朝のうちは柔らかい。
湿った落ち葉の匂いに、細く乾いた獣の気配が混ざる。

ラウは弓を背に、罠袋を左肩にかけて歩く。
その足取りに、ためらいや無駄はない。
彼にとって“森を歩く”という行為は、人の行き交う町中よりもしっくりきた。

ミルルは木の枝から枝へ、ちょろちょろと素早く動きながらついてくる。
肩には布の鞄。中には持たされた罠と干し肉、小刀、ついさっき拾ったらしい何かの骨。

「ラウ~、さっきから黙ってるけど、なにか変な匂いでもするの?」

「……いや、ただ静かすぎる」

「春だからみんな昼寝してるんじゃない?」

「違う。“寝ている音”がない」

ラウの足が止まる。

鳥の声が、しない。
草を踏む小動物の足音も、風に揺れる枝葉のざわめきも――確かに、どこか抜け落ちていた。

森が、身を潜めている。

そんな空気だ。

狩り場の南側に近づく。
そこはもともと、鹿や猪の通り道がいくつも交差する重要な狩猟地帯だった。

だが、獣道の途中、明らかに“大きな何か”が通った跡がある。

細い木が折れ、蹴り飛ばされた土くれと地面に深く沈んだ足跡。

「……これは」

ラウがしゃがみ込み、足跡を観察する。

蹄でも、鳥の爪でもない。
肉球に近く、しかし異常に大きい。そして――

「獲物を追ってるな」

「獲物?」

「……獲物を追いやすい道を選んでいる」

ミルルの耳がピクリと動く。

「ま、まさか……食べる気まんまん系のヤツ?」

「可能性はあるな。肉食は確定だ」

さらに奥へ進むと、一本の木の根元で、罠の跡が見つかった。
がっちりとしたワイヤーの締め罠。それが――ねじ切るように壊されている。

「馬鹿力みたいだな」

「こわ……ッ!やばいのじゃん!これやばいのじゃん!」

ミルルは木の上にぴょんと飛び乗り、耳をぴくぴくさせながら周囲を見渡す。

「しかも、ここ……血の匂いする」

「……ああ。安全じゃないな」

転がる石にこびりついた、血の斑点。
森の奥へは何かが引きずられたような跡。

ラウは矢筒に手をやり、一本をそっと抜いた。

「帰る?」

ミルルが問う。珍しく声が小さい。

「……いや」

ラウは目を細めて、奥へと視線を向けた。

「もう少しだけ、追う」
 

第三章:遊びの狩

 

獣道は、いつの間にか消えていた。
真新しく踏み倒された若木や草、それが唐突に途切れる。
思い出されるのは『木の上からこちらを見下ろしていた』という言葉。

ラウは樹上を見上げる。

木々は高く、影は深く、視界は狭い。
獣だけでなく森も息を潜めたままだ。

「……ここから先は気をつけろ。音を立てるな」

ラウは低く言い、静かに踏み出していく。

ミルルは木の枝から枝へと身軽に移動していたが、その動きも慎重だった。
彼女は本能的に知っていた――この空気は、“何かが潜んでいる”空気だと。

やがて、森の奥に開けた小さな沢に出た。

そこは、獣たちの水場として使われる場所で、
ラウのような狩人であれば“隠れて待ち伏せ”するのが常道だった。

だが今、その沢の端に――
あきらかに“何者かに裂かれた”獣の死骸があった。

「……鹿か?」

「頭が……ない」

ミルルが呟いた。

その通りだった。
鹿の胴体は残っているのに、首から上がまるごと消えている。
切断面は、咬みちぎられたような不揃いな裂け目。

「喉元を狙った噛みつきだな。力は強いが、狙いが単純だ。殺すのが目的で、狩りは遊びか?」

「たちのわるい殺戮者……」

ラウは、爪痕を見る。鹿の体に五本の鋭い線が残っていた。

「五本。前脚にしては異様に指の間隔が広い。大型の猿……?」

ラウの手が自然と矢へと伸びていく。

周囲の空気が、じわりと重たくなる。

そのとき、風が逆に吹いた。

ラウの鼻がひくりと動く。

血の匂いに混ざって、生きた獣の匂いが鼻を打った。

「ミルル」

「……うん。上に、いる」

ミルルの声が低く、緊張に震えていた。

ラウは矢を番え、いつでも放てるように弓を引く。

木々の枝の奥、
ゆっくりと――まるでこちらを“試すように”――
光のない二つの目が、こちらを見返していた。

 

第四章:逃げるか、撃つか

 
弓の弦がきつく張り詰める。
ラウの指先は微動だにせず、視線の先には光のない目。
葉と葉の隙間、その奥に潜む黒い影は、確かにこちらを見ていた。

風が止まる。

「……撃つ?」

ミルルが微動だにしないラウへ聞いた。

「まだだ」

「なんで?」

「アレはこっちの動きを見ている」

ラウは矢を引いたまま、半歩だけ左へ移動した。

その瞬間――

黒い影が“滑るように”枝から消えた。
見失いそうな、滑らかな動き。

ラウの体が反射で動く。
“そこ”に向けて矢を放つ――

ビシィッッ!

乾いた音が森を裂き、矢は影に追いつけず木の幹に突き刺さった。

「くっ……!」

「ラウ、あれ、地面に降りたよ!」

ミルルの声と同時に、ラウは弓を肩にかけ、剣を抜いた。

もう近い。気配が、迫ってくる。

「ミルル、逃げろ」

「え、ちょ――っ、ミルルも戦力になるやつだよ!?……たぶん!」

「いいから走れ。お前は速い」

「……ッ、わかったよ!」

ミルルはすばやく身を翻し、木の枝を滑るように駆けていく。
その体の軽さと反射速度は、確かに“逃げ足”において信頼できるものだった。

ラウは、沢の中央に立つ。

風が、またひとつ吹いた。

――それは、後ろからだった。

振り向きざま、ラウは剣を構える。

黒い影が、尋常じゃない速さで突進してきた。
それは熊のような体躯に、長い腕と、刃のような爪を持つ、獣とも人ともつかない猛獣。

ラウの剣が、ナイフのような爪の猛獣の手の平へ打ち込まれる。

だがそれを、奴は痛みもなく、無視した。

「……ッ!」

突進力をそらし、ラウは横へ転がる。
奴の方はその勢いのまま体を茂みへ突っ込み木の上へ姿を消した。

(やはりただの獣じゃない……)

立ち上がった時には、奴の走る音が死角から迫っていた。

ラウが覚悟を決め、獣が迫ってくるぎりぎりで体を獣の足の間に滑らせた。
立てるように持った剣が獣の下半身に刺さって衝撃で手から離れる。

手応えはあった。
が、それでも奴は動きを止めない。

「……ッ、化け物が……!」

至近距離で浴びた獣の血の臭気に、ラウは一瞬だけ眩暈を覚えた。
痛みに怒る獣の爪が、剥き出しになった大きな牙が、ラウの目の前にある。

「ラウ!!」

ミルルの声。
と同時に、頭上に何かが飛んできた。

乾いた音とともに、獣に“網付きの矢”が突き刺さる。
それは、ミルルに持たせた矢の罠。

獣の身体に網が掛かり、網を取ろうと暴れラウから注意がそれた。

「ッ、今のうちだ、逃げるよ!!」

ミルルが駆け寄り、ラウの腕を引く。

ラウは苦々しく歯を食いしばりながら、落ちていた剣を拾い、後ろを一度だけ見て、走り出した。

  

第五章:名もなき獣

  

村の灯りが見えたとき、太陽は山の端に沈みかけていた。
ラウは泥にまみれた衣を払いながら歩き、背後を何度か振り返った。

追ってくる気配は、ない。

ミルルは後ろからぴょんぴょんとついてきていたが、珍しく黙っていた。

「……あれ、なに?」

ぽつりと漏らしたその声に、答えはなかった。

ラウ自身も、わからなかった。

あれは獣か?
新種の化け物のような猿か?
それとも……別の何か?

ただ確かなのは――

こちらを“獲物”だと思っている。

帰ってきたラウを見て、村人たちは少しざわめいた。

服が裂け、疲れた様子。栗鼠の獣人は大人しく狩人にピッタリとくっついている。
それは“何かと出会ってきた”証拠だった。

ミルルは村の子どもたちに囲まれ話をせがまれると、「すっごいヤツが出たんだよ!」とすぐにいつもの調子に戻っていたが。

ラウは、それを遠目に見ながら村長の家へと向かう。

部屋に通され、状況を話すと、村長の顔色が目に見えて変わった。

「……ほう。そんなものが、本当に?」

「ああ。目が合った。明確に“こちらを狩れるか”見ていた」

「むぅ……そんな化け物じみた獣など、この山にいたかのう……?」

ラウは小さく首を振る。

「違う。この山に“来た”のか、新しく“生まれた”のか。どちらかだ。あれはただの獣じゃない。罠を破り、矢も剣も恐れない」

「…………」

村長はしばらく黙っていたが、ふと棚の奥から古い布の巻物を取り出した。

「うちの村には、こんな言い伝えがある」

巻かれた布の中に描かれていたのは、粗い筆致で描かれた“何か”。

黒く、四肢が長く、森の中からこちらに目を向ける影。

『名もなき狩り手』――
そう、墨で書かれていた。

「人を狩る獣が出たという話だ。これは昔、猟師が一人ずつ森に消えてしまい、恐れた村人が誰も森に入れなくなったと伝えられている。森からのぞく獣の目撃が絶えず、人も動物も見境なく、隙をみせればあっという間にさらっていくと」

「迷信か?」

「そう願いたい。……だが、お主の話を聞く限り、
どうやら今の森は“何かを産んでしまった”ように思える」

ラウは黙って巻物を見つめていた。
絵の目の部分――黒い点が、絵の中でこちらを見ているようだった。

「村の人間に被害は?」

「……今のところはない。だが、南の外れの森の前には、子どもたちが近づくこともある」

「ならば、まずは“追い返す”ことを考えた方がいい。倒せるかどうかは、まだわからない」

「……頼む。ラウ。金ではない。……助けてくれ」

ラウは立ち上がる。

「……あいつに森を追い出されるいわれはない。明日、また森へ入る」

夜。

ミルルは薪の上に座り、ぽつりと訊いた。

「怖くなかったの?」

「怖いさ。ああいうのは。 俺はただの猟師だ」

「……じゃあ、やめる?」

「無視はできない。 この土地を移って、あれがまた出たら尻尾を巻いて人里へ逃げ帰るか?」

ミルルは、小さくため息をついて、ラウの足元へちょこんと寄った。

「じゃあ、ミルルも明日ついてくよ。あれ、ぜったいひとりじゃ相手しちゃダメなヤツだもん」

ラウはそれには答えず、火の残りを見つめた。
 

第六章:再び森へ

  
朝霧が、森を包んでいた。

まだ日も昇りきらぬうちから、ラウは身支度を整えていた。
矢を一本ずつ先端に欠けがないか確認する。
剣の刃を研ぎ、革手袋を締める。

ミルルはというと、朝からテンションが妙に低い。

「……あんたさ、ほんとはひとりで行く気だったの?」

「いつも通りだ」

「違うでしょ。あれは“いつも”じゃない。ミルル、知ってるよ。仕事道具をあんな真面目な顔でずっと見てるなんて、ラウはもっと面倒そうな顔してるもの」

ラウは動きを止めた。

「……面倒そうにしてたか?」
彼にしては珍しくショックを受けた様子だった。

「少し表現を誤ったかもしれない。今日の顔はいつもより険しかった」
ラウの様子にミルルはお調子よく言いなおす。

「俺をどういう目で見てるかよくわかった」
呆れるラウに丸い目をくりくりとさせてミルルは続ける。

「今日もミルルは一緒に行く。見張り役でも罠の補佐でも、なんでもするよ。
……それが“商売仲間”の役目でしょ?」

ラウはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「……なら、逃げる用意だけは忘れるな」

「任せて!逃げるのは得意だよ!」

ミルルはぽん、と胸を張る。ラウは自分で言った言葉に何とも言えない表情になる。
逃げ足の速さは生き残る上で明らかな長所だった。それに悪態を吐くのはラウのような“狩人”だけなのだ。

森へ入ると、昨日とはまた違った空気が漂っていた。

霧が重く、木々がざわついている。

ラウは無言で進み、ミルルは枝の上を静かに並走する。

途中、小動物の足音も聞こえるようになってきた。
昨日までの不気味な静けさは、やや和らいでいるようだった。

「戻ったな、気配が」

「うん。鳥も鳴いてるし、獣道も新しい匂いがする」

「どこに身を潜めたのやら……」

ラウは腰から筒を取り出す。

罠だ。

小型の糸引き起爆罠を、木の間にいくつか設置する。

「今日はこれを使う」

「……ほんとにやるんだね」

「やらなきゃ、やられる。仕留められなければ、次に狙われるのは“村”だ」

罠を張り終えた後、ふたりは木陰に身を潜めた。
霧は晴れはじめ、日差しが差し込んでくる。

ラウの指が、弓にかかる。

静かに、呼吸を整える。

“狩られる側”で終わらないために。

そのとき、森が一瞬――呼吸を止めたように静まり返った。

そして、草を踏む音がした。

ミルルがラウを見た。

ラウは、弓を引きながら目を細めた。

「来たな」
 

第七章:罠

 

それは、確かにこちらへ向かっていた。
 
草を踏みしめる音がいやに耳に響く。

ラウは茂みの中、目だけを細めた。
矢はすでに番えてあり、引く力も完璧に定まっている。

対して――ミルルは緊張で、尻尾がボワボワになっていた。

ミルルは、森の動物のように木の枝に張り付くように身を伏せている。

ラウの指がわずかに動いた。

森の中に置いた罠は、五つ。
中でも四番は、木の根の影に隠し、動物の通り道にかかるよう仕掛けてある。

音が、近づく。

ぬかるみを歩く湿った音――

そして――プツッ

引き糸が引っ張られ、罠が発動した。
ボンっと炸裂する光と衝撃。

続けざまに、飛び出したラウの矢が放たれる。

ピュウと森の空気を裂く音と共に、矢が獣の頭に刺さる。

呻き声は、ない。

頭から体から血を流す獣がラウを見る。

「ラウ、動いてるよ! あれ!」

弓を投げ出し、ラウは剣を抜く。

ミルルが上空から木の実を投げつけた。
それが命中して、ラウを見ていた獣の動きがわずかに止まる。

その一瞬――
ラウは飛び込んだ。

低く姿勢を落とし、剣を構え、
黒い獣の胴体の脇腹へ、真横から突き立てる!

刺さったと思った瞬間、化け物の腕がぶつかる感触と共にラウの体が薙ぎ払われた。

木の幹に、ラウの背中が叩きつけられる。
一瞬、視界が揺らぐ。

が、獣も動きを止めた。
剣が深く刺さったままになっている。

「……はぁ、ッ、ッ……!」

呼吸を整えながら、ラウは木の陰に隠れた。
ミルルは回収した弓をラウに投げ渡す。

「ラウ!!」

ラウは受け取ると、即座に番える。
視線は、じりじりと立ち上がろうとする獣の首――

シュッ――ズドッ。

矢が深く刺さった瞬間、黒い獣の身体が身動きを止める。

長い沈黙。

やがて、それは――重力に従って崩れ落ちた。

ミルルが木から降りてきて、ラウの腕をとる。

「……やった……よね?倒した、でいいんだよね?」

ラウは返事をせず、しばらくその黒い死体を見つめていた。

そして、小さく呟いた。

「……ああ、狩りは終わった」

狩りの成功を喜ぶには、苦々しさがあった。あまりにも凄惨過ぎたのだ。

けれど、少なくとも今は――
森に、静けさが戻っていた。

 

第八章:狩りを終えて

 

獣の死体は、昼を過ぎてもなお温かった。

ラウは近づき、剣を引き抜きながら観察する。

猿と人の中間のような顔、熊のような毛むくじゃらでタフな胴体。生き物を切り裂くのに特化したような爪。

「……やっぱり、普通の生き物じゃないよな、これ」

「ねぇ、もう動かないよね?」
ミルルが後ろから顔を覗かせ、そっと尻尾で死体をつつく。

それから目聡くそれを見つけた。
「……これは、牙?」

肩に埋まるように、“別の獣の牙”が突き刺さっていた。

ラウが剣で肩をえぐり、牙を取り出す。

すると化け物の死体は、微かにくぐもった音を出して揺れた。
まるで、最期に息を吐き出すように。

その音の後、死体は崩れて姿を失い、朽ちるように土へと還り始めた。

ミルルは驚き、ラウの頭に抱き着いて、ラウの顔は険しくなった。

日が傾きはじめ、鳥たちの声が空に戻りつつあった。

ラウとミルルは、静かな森を歩いて村へと戻る。
風が通り、葉を撫でるいつもの光景。

村の輪郭が見えてきたとき、ミルルがふとつぶやく。

「ねえ、ラウ。あの化け物は何がしたかったのかな?」

ラウは一瞬だけ足を止め、ミルルを見る。

「……さぁな。獲物の気持ちは狩人にはわからんさ」

ミルルは静かに笑った。

村では、子どもたちが焚き火を囲んでいた。

ラウが帰ったことに気づくと、走り寄ってくる声がした。

「おかえりー!」

「ラウ、狩り成功ー!?」

「ミルル、なんか持って帰ってきた!?」

ミルルは誇らしげにポーチをぶら下げてみせたが、中身は――
乾いたキノコと、壊れた矢尻と、森で拾ったよくわからない石。

「ラウは? なんかすごいの持ってないの?」

子どもが訊くと、ラウは少しだけ考えてから答えた。

「……ミルルが黒い獣の狩りの話をしてくれるってさ」

「ミルルーーー!!」
子供たちがまたミルルに群がっていく。

「ひどいよラウ! こっちだって疲れてるのに!」
笑い声が広がった。

夜。
ラウは軒先に腰を下ろし、火を見つめる。

ミルルは丸くなって眠っていた。
尻尾がゆっくり揺れていて、夢の中でもちょろちょろしていそうだった。

風が吹いて、森の匂いが運ばれてくる。

この場所に、今日もまた命がある。

それだけで、狩人にとっては十分だった。

 

 

 〈終〉

  

 

※この作品はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。

胞子都市

主人公
倉科:旧市街地の再開発チームの一員。古いビルで「菌糸の目」を発見し、街で起こる異変にいち早く気づく。周囲が誰も信じてくれない中、一人で真相を追い求める。

◆あらすじ
旧市街地の再開発。取り壊し予定の古いビルで、再開発チームの一員である倉科は、不気味な白い菌糸の模様を発見する。それはまるで人間の目のようで、一瞬またたきをしたように見えた。その日から、倉科の周囲では不可解な出来事が起こり始める。

※! ※以下の内容が含まれます※! ※
バッドエンド、グロテスク、ホラー、胞子、菌類、視線恐怖症の方はご遠慮ください

  

第一章:見えない侵食

 
 倉科は、旧市街の再開発チームの一員として、取り壊し予定の古いビルへ足を踏み入れた。昼間でも薄暗い廊下は、ひどく湿った空気を孕んでいて、まるで地下室のような重苦しさがある。点検用のライトをかざすと、壁のあちこちがカビに覆われているのが分かった。長年放置されてきた建物にしては、やけに生々しい――そんな印象を受ける。

 同僚たちは作業に取りかかったが、倉科はビルの窓ガラスに目が止まった。そこには、人間の目のような形をした白い菌糸の模様が浮かんでいる。倉科は息をのんだ。菌糸の目が瞬きしたかのように見えたのだ。見間違いかと思い、そっと手を近づける。すると、一瞬だけその“目”が閉じたように見え、ゾワッと背筋が震えた。
「なあ、これ……」
 倉科は同僚を呼んだが、同僚はちらりと模様を見ただけで首をひねる。
「ただのカビだろ?気味悪いけど、まあ廃ビルならこんなもんじゃないの」
 そう言って作業に戻ってしまい、気のせいだと笑って受け流される。

 しかし、違和感は増していく。ビルの奥へ調査に入ると、歩くたびに床が微かにへこんだ。まるでスポンジの上を歩いているような感覚。手で触れると内側にかすかに沈んで戻る。これではまるで、無機物ではないような……? 倉科の耳には配管を通る水音まで、耳障りに大きく聞こえる気がした。
 手にした図面を見つめ、古い建物にありがちな老朽化とは違う“生々しさ”に胸騒ぎを覚える。目の前の異様な光景は、ただの老朽や湿気のレベルとは違う気がした。

 誰もが見過ごしているこの異変に、自分だけが気づいている。そんな不安を胸に、倉科は一歩一歩、奥へと進む。すると、背後の窓ガラスをかすめた視界の片隅で、あの“菌糸の目”がわずかに動いたように見えた。追いかけるように振り返ったときには、すでに静止している。
 それでも、あれは確かに“瞬き”していた――倉科は確信した。それがこの建物全体の不穏な気配と、どんなつながりを持っているのかは、まだ知る由もないままに。

 

第二章:静かな感染

 
 廃ビルでの調査から数日後、作業員の一人が急に倒れた。現場の休憩室でうめき声を上げながら、腕の一部を痛そうに押さえている。慌てて医務担当が駆け寄ると、そこにはコケのような緑色の斑点が浮かんでいた。肌が薄く変色し、まるで植物の胞子に覆われているような奇妙な状態だ。
 応急処置の甲斐なく、作業員は救急車で運ばれる。その後、現場ではちょっとしたパニックが起きるかと思われたが、意外にも大事にはならなかった。病院からの連絡は濁され「疲労による抵抗力の喪失やアレルギー反応らしい」などの詳細の省かれた噂しか聞けなかった。会社の管理部門も「疲労やストレスに起因する病気」と処理してしまう。

 しかし、倉科は納得できなかった。
「あのビルで見た菌糸の目と関係あるはずだ。これはただの病気じゃない、建物のせいだ」
 そう上層部に報告しても、誰も本気で耳を傾けようとしない。むしろ「余計な噂を立てるな」「神経質になりすぎだ」となだめられる始末だ。

 ところが、旧市街地のあちこちで不可解な現象が起き始める。信号機が一斉に誤作動を起こし、車が交差点で立ち往生する。ビル群の電気系統が異常をきたし、一帯が突然停電になる。まるで、その区域だけが“なにか”に標的にされているかのようだ。
 再開発チームのメンバーは「老朽化したインフラの故障だろう」と口にするが、倉科にはそれだけでは説明できない気がしてならない。

 無機質に見えた街が、少しずつ“違う形”に変わり始めている。
 廃ビルの窓ガラスに浮かんだ菌糸の目。あの一瞬の瞬きが頭から離れなかった。街自体にアレの影響が及んでいる――そんな悪い予感が、倉科の胸にこびりついて離れない。

  

第三章:焼却計画

 
 かつての廃ビル調査から、日ごとに広がりを見せる“異変”。感染した作業員は入院しても回復の目処が立たず、また他のスタッフからも似たような症状の報告が上がり始めた。ビルだけではない。周辺の建造物にも、あの“目”に似た菌糸の模様が浮かび始めている。都市の変質が進行している――その事実を前に、倉科の焦りは限界に達していた。

「これ以上、放っておいたら取り返しのつかないことになる」
 そう確信した倉科は強硬手段に出る。手遅れになる前に“感染区域”を焼き払おうと決意したのだ。
 彼は以前に参加していた研究プロジェクトの管理倉庫を訪れ、そこに保管されていた火炎放射器をこっそり持ち出した。本来は小規模な実験の後始末のための器具で、軍仕様のものほど強力ではないが、それでも火力は十分だ。

 夜が更け、人通りの少ない時間を狙い、倉科は再開発予定地に舞い戻る。今はフェンスで閉鎖されたあの古いビルの周囲を見回し、あの胞子やカビが集中する地点を目視で確認する。緑の気味の悪い茸やコケのようでいて、生理的な嫌悪を催す塊。それがまるで何かの巣のようにビルの壁に張り巡らされている。その姿を目にしたとき、倉科は震えを抑えながら火炎放射器を構えた。
「これ以上、広がる前に止めなきゃいけない」
 そう声に出し、自分を奮い立たせる。

 トリガーを引いた瞬間、激しい炎の帯が一気に飛び出して壁や地面を舐める。廃ビルの窓ガラスに浮かぶ“目”が、ぶわりと燃え盛る炎の中で揺らめいた。そのとき、ビルのコンクリート内部から低いうめき声のような音が聞こえた……気がした。建物が悲鳴を上げているようにも思えて、倉科は息を呑む。

 だが、そのとき突然、警備員たちの怒号が響き渡った。
「動くな! 火を消せ!」
 複数の懐中電灯の光が、倉科を一斉に照らす。思わず振り返ると、警備員が数名こちらに向かってきていた。
「何をしているんだ! 建物に火を放つなんて正気じゃない!」
 倉科は火を警備員に向けるわけにもいかず、火炎放射器を取り上げられる。取り乱したまま「あれは燃やさなければならない!」と叫ぶが、この場に賛同する者は一人もいなかった。燃やしたはずの壁を見ると、目の前で菌糸のようなものがまた広がっていく。
「あれが見えないのか!あれは、あいつらが……!」

 そのまま倉科は拘束され、保安責任者から厳しい詰問を受ける。彼が「これは建物が生きていて、人間を侵しているんだ」と力説しても、誰も本気にしない。結果的に、倉科は「精神的に不安定な状態にある」と判断され、近くの研究施設の隔離室へ運ばれることになる。
 薄暗い独房のような個室に収容され、精神安定剤を投与される倉科。その目には、まだ先ほど目にした“広がる菌糸の影”が鮮明に焼きついていた。

  

  

 彼の証言はすべて録音されたものの、「妄想のたぐい」として扱われているだけ。静まり返った個室の中で、倉科はただ一人、自分の正気を疑われる苦しみに耐えながら思う。
「もし、もう手遅れだとしたら……この街は、どうなるんだ?」

 その問いかけは、壁に遮られて誰にも届かなかった。

  

第四章:変質する施設

  
 研究施設の個室に拘束された倉科は、面会や外出を禁じられたまま、ひたすら時間を持て余していた。彼の言う「街の変質」を誰も信じず、危険人物扱いする管理者たち――その冷たい視線に、倉科は自分の正気を疑われ続けるストレスを感じていた。

 ところが、隔離された施設内でも、不穏な気配が徐々に広がり始める。まず気づいたのは、天井の隅に生えたカビの模様がやたらと大きくなっていることだった。あるとき倉科がぼんやりと見上げると、そのカビの中心が黒く盛り上がり、まるで「瞳」のような形をつくっていたのだ。うっすらとした照明の下、その“目”は確かに倉科を見下ろしているかのように思えて、不気味な寒気を覚える。
 さらに奇妙なのは、職員や管理者たちの態度だった。会話の最中に、どこかで聞き覚えのあるメガホン放送や工事音のような“都市のノイズ”が混じることが増えたのだ。たとえば、管理者が「今日は薬を増やす」と言った瞬間に、同じ声で「次は○○駅、終点です」という無関係なアナウンスが重なる。職員はそれをまったく意識していない様子で、ただ無機質に業務を進めていく。まるで何かに操られているようで、倉科は嫌な予感に襲われるばかりだった。

 そんなある夜、施設内の照明が突然すべて落ちる。非常灯も点かず、深い闇に沈んだ廊下から、かすかな“ずる、ずる”という湿った音が聞こえてきた。
「……誰か、いるのか……?」
 倉科は呼びかけようとするが、声を上げるより先に不安が膨らむ。あれは人間の足音ではない。もっと重く、這うような動き――何かが床を引きずっているような音だ。ほどなくして、その音が倉科の個室のドアの前で止まる。
 静寂の中、扉が微かに震え、金属がきしむような音がする。カチャリと開錠する音が耳に伝わったその瞬間、倉科は反射的に身を起こした。恐怖と混乱のまっただ中だが、ここを脱出しなくてはという衝動が彼を突き動かす。

 扉をそろりと開けた。すると目の前に少し震える黒い塊がある。手のような塊の先には鍵が握られていた。倉科はその正体について考えたくなかった。なぜ鍵を開けたのかその理由も頭から追いやる。

「開けてくれたことに感謝する……」ふり絞った声でそう言うのが精一杯だった。鍵束が床にジャラッと落ちた。もう体を支えられなかったらしい。

 非常灯も機能しない暗闇に、彼の呼吸音だけがやけに大きく響く。壁を伝って、おそるおそる廊下を進む。
 施設の奥のほうからは、ときおり電気系統のスパーク音が聞こえる。どこへ行けば出口なのかも分からないまま、倉科は脱出を目指して歩を進めた。
 “都市のノイズ”が頭の奥でこだまするような奇妙な感覚を覚えた。どこからか「ただいまの時刻、16時46分をお知らせします……」生々しい時報を知らせる声も聞こえてくる。彼はこの狂気に満ちた施設から逃げだそうと焦る。恐怖に耐えられず倉科は廊下の奥へと駆け出す。

 闇の中の空気はひどく生温かく、施設というより巨大な生き物の体内に迷い込んだような気さえする。彼はその正体を確かめるより先に、建物の出口を求めて、ただただ走り続けるのだった。

  

第五章:逃走、そして──

  

 照明が落ち、闇に沈んだ施設の廊下を進むうちに、倉科は薄暗がりの先で怪しい物音を捉えた。そこには、職員と思しき人影が立っている。最初は背中しか見えず、静止しているようだったが、やがて彼がゆっくりとこちらへ向き直る。その顔は生白く、皮膚の表面には苔やカビに似たものが混じり合い、まるで“胞子”へと変異したかのような異様な姿になっていた。
 虚ろな目でまっすぐこちらを見る様子は、人間というよりは生気のない人形に近い。倉科は恐怖で体がこわばるものの、何とか足を動かして後ずさる。しばらく、廊下の曲がり角の陰から様子をうかがうっていると、立ち去る音が聞こえた。

 倉科は深呼吸をして、先を進む。暗闇で視界は限られているが、非常口の案内表示がかすかに見える。そこをめがけて走り、鉄扉を手探りで開けると、冷たい夜の空気が流れ込んできた。
 ――外だ。
 息を弾ませながら外に飛び出すと、月明かりが照らす夜の街は、一見するとごく普通に動いているように見える。遠くにはタクシーやバスが走り、ネオンサインがきらめいている。あの不可解な施設の変質が、まるで幻に思えるほど平穏な光景だ。

 けれど、このままでは街全体が、先ほどの施設のように変貌していく可能性がある。焦りとも恐怖ともつかない感情に駆られながら、倉科はその場を離れるしかなかった。疲労と混乱のなか、とにかく少しでも遠くへ逃れたい――その一心で、彼は深夜営業をしている長距離バスのターミナルへ向かう。
 うなだれるように乗りこんだバスは、発車するとすぐに闇の国道へと滑り出していった。まばらな街灯が車窓を流れるたび、倉科はまるで悪夢から解放されたかのような安堵を覚える。

 だが、その安堵はいつまでも続かないかもしれない。自分が見てきたもの、そして感じた不気味な変化――あの都市は、ただの老朽やカビの問題ではなく、何か別の不可解なものに侵食されている。誰も信じてはくれないが、倉科にとってはそれが真実だとしか思えないのだった。

 夜の道路を疾走するバスに揺られながら、彼は混濁する意識の中で、ただ静かに怯え続けるのだった。

  

最終章:運び屋

  
 あの夜の混乱から数週間後。倉科は遠く離れた別の都市で暮らし始めていた。施設の一件については、会社側からもみ消しのような形で処理され、倉科は会社都合によって退職させられた。

 新天地で、倉科は地元の建築事務所に就職し、主に鉄道の設計に携わっていた。地下鉄駅の構造計算やデザイン検討など、都市機能の根幹を支える大きな仕事。それでも彼の心は晴れない。あの都市で見た“異様な施設”の記憶が、今も悪夢のように付きまとっているからだ。

 ある日の午後、彼は地下鉄の駅構内図を確認していた。駅の通路や階段、ホームの位置を示す図面を拡大コピーし、細部まで目を凝らしてチェックする。そのうち、何かおかしい――と、倉科はふと違和感を覚えた。
「……あれ、こんな線、描いたっけ?」
 設計段階では存在しないはずのラインが、紙の隅にうっすらと浮かんでいる。消せるかと思い、消しゴムを当てても跡形ひとつ消えない。むしろ、その線は徐々に輪郭を鮮明にしていくかのようだった。

 もう一度、視線を定める。すると、その線はやがて、まるで“目”のような形を形作り始めた。凝視すればするほど、あの“瞬きした菌糸”が脳裏に鮮明に蘇ってくる。
 倉科は血の気が引くのを感じた。これほど遠く離れた街でも、あの“目”は姿を現そうとしているのか。それとも――もしかして、自分こそが、その“目”を運んできてしまったのか。

 ゾクリとした瞬間、彼の肩に微かな埃がついているのに気づく。はたくと、白い埃のような粒子がふわりと宙に舞い上がり、光に透けてきらめきながら空気中へ散っていく。
 どこかで聞いた、あの都市のノイズのようなざわめきが耳の奥で小さく響いた気がした。ようやく思い至る。なぜ、施錠されていたドアの鍵が開かれたのか。なぜ、あのおかしくなった施設で倉科を襲う者がいなかったのか。

 もう逃げられない。あの街で浴びた胞子は、いつの間にか倉科に取りついていた。そして今、別の街へ運ばれたそれは、密かに新たな巣を築こうとしている。
 倉科は恐怖に襲われながら、ただ図面に刻まれた“不自然な目”を見つめ続けるしかなかった。まるでそれが、じっと彼を見返しているかのように――。
  
  

〈胞子都市・終〉